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鹿児島エルム会 |
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阿久根探検隊に参加した後、鹿児島に1泊。何年ぶりかで、同窓会に出席した。 鹿児島大学水産学部学部長になった松岡先生の講演 独立法人になって、これからの水産学部の長期目標は・・・ |
久しぶりに難しい話を聞く。 松岡先生は、私と一緒の入学だったのに・・ う〜ん、偉い人になられました!! 皆で、講演の感想を・・・ 大学も企業並みになってきた・・・と言う感が・・ |
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歓談 参加者がだいぶ皆年配になられてしまいました。 これから若い人が参加してくれるような、同窓会になるよう、会長さんの頑張りに期待します。 |
北大工学部化学系東京同窓会
〜先輩より、報告レポートが届きました。〜
講演会メモ
日時:平成17年4月9日 14:30〜19:00
場所:学士会館(千代田区神田錦町3-28)
記:合成8期 a-nakamura
1.講演1「21世紀に読みなおす夏目漱石」
講師:小森陽一 東大大学院総合文化研究科教授
〈講師プロフィール〉
北大文学部昭和51年卒、同大学院文学研究科日本近代文学専攻MC修了、成城大学助教授を経て現職、漱石研究の第一人者、著書に「文体としての物語」(筑摩書房)、「構造としての語り」(新曜社)、「緑の物語」(新典社)、「読むための理論」(共著、世織書房)、「漱石研究」(石原千秋と編集、館林書房)、「漱石を読みなおす」(ちくま新書)
〈講演内容〉
文学部卒業の私が工学部出身の皆さんにお話をということで違和感を感じておられるかもしれません。現在、大学の新入生に読んだことのある書籍を聞くと漱石の「こころ」が第一位に挙げられます。昨年、岩波書店創立90周年を記念して読書アンケートを取ったところ1位から3位迄が漱石で、夏目漱石は商品としても売れていることが分かります。私の友達に大江健三郎や井上ひさしがいますが、現在の彼等と同様に、岩波文庫にしろ新潮文庫にしろ、漱石には一つたりとも絶版になった作品がありません。
近代日本語文体は漱石が作り出したものです。同時代の尾崎紅葉(慶応3〜明治36)、幸田露伴(慶応3〜昭和22)、樋口一葉(明治5〜29)等の文体は稍古くて現代語訳が出ているくらいですが、漱石(慶応3〜大正5)にはそういうことがありません。
漱石が小説家になった媒体は東京と大阪に本社を持つ朝日新聞(明治40年、帝大講師を辞して入社)であり、彼は新聞読者に対してサービス精神を発揮しながら小説を書きました。漱石が今なお多くの読者に愛読される理由は、近代日本の作家としては珍しく中年になってから小説を書いたことが挙げられます。尾崎紅葉は25歳で文壇に登場しましたし、大江健三郎も人生経験に乏しい学生時代に小説を書いています。それに対して漱石がデビューしたのは、正岡子規が主催する「ホトトギス」に発表した「吾輩は猫である」であり、38歳(明治38年)のときでした。
漱石がそれまでにどういう人生体験をしたのかを辿ってみましょう。漱石は戊辰戦争が始まる1年前の慶応3年2月9日に、江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町)に夏目家の五男三女の末っ子(本名:金之助)として生れました。不思議なことに漱石の主要な人生の節目と日本が経験した明治の戦争とはピタリと重なっています。お父さん(夏目小兵衛)50歳、お母さん(千枝)41歳のときですからとんでもない高年齢出産ですね。夏目家は町方名主でしたが家運は傾きかけており、1歳のとき内藤新宿の区長をやっていた塩原昌之助の養子に出されました。9歳のとき養母が離縁されたため塩原家在籍のまま実家へ戻されます。西南戦争の前年(明治9年)です。そして塩原金之助のまま20歳まで夏目家から学校へ通います。公立市谷学校→東京府第一中学校→私立二松学舎→成立学舎→大学予備門(後の一高)。
夏目家では長兄と次兄が結核で死に3兄も喀血したため、他家に出していたから結核の心配はないだろうということで、21歳のとき養育費270円を支払って夏目家に取り戻されます。1円が今の3万5千円に当りますから約1千万円で買い戻されたんですね。その内容は漱石の自伝的小説と言われる「道草」に書かれています。漱石はこのとき苗字なしで「金之助」と署名しています。これを訓読みすると「かねのたすけ」と読めるんですね。それは彼が一高から帝国大学(文科大学英文学科)へ進学(明治23年)する頃のことで、戸籍上の問題は漱石のトラウマ(精神的外傷)となります。
漱石は明治25年に徴兵を免れるため戸籍を岩内(いわない)に移動させられています。皆さんご存知の積丹半島の付け根にあるこの町は、いま「文豪夏目漱石立籍地」を観光の売り物にしています。北海道には明治の初めに屯田兵が置かれ、「植民地」開拓が行われていました。フロンティアとは戦争の最前線を意味するのですが、当時北海道平民になるということは究極の徴兵逃れだったのです。漱石はこのことに深いこだわりを持ち続けます。「吾輩は猫である」の中に「一夜(いちや)」という短篇を書いた「送籍」という男が出てきますが、この名がこだわりの証拠です。
明治25年友人の正岡升(のぼる、号「子規」)が結核で帝大を退学し新聞「日本」に入社しましたが、漱石は帝大英文学科卒業後、明治28年に子規の母校・松山中学(愛媛県尋常中学校)に赴任しています。このときのことを書いたのが「坊ちゃん」(明治39年発表)です。この当時帝国大学を卒業して中学校教諭になるなんてなかったことですが、彼は外人教師枠つまりお雇外国人教師と同じランクで赴任しましたから、校長の2倍の給料(80円)を貰っているのです。日露戦争迄の帝国大学の卒業生は全部で3千数百人ですから、今の 1学年3千人の東大とは比較にならないエリートなんです。漱石は翌年(明治29年)第五高等学校へラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の後任者として赴任しています。後にロンドン留学から戻ってきたとき(明治36年)もハーンの後任として帝大英文科講師になっています。このころは、明治の文明開化を担ったお雇外国人の役割を日本人に取り戻して行く時代だったのです。
明治33年、文部省から英語研究のため官費留学を命ぜられてロンドンへ旅立ちます。この英国留学が作家・漱石を生み出した一大要因となったと考えられます。明治34年5月正岡子規宛に書いた手紙を、子規は漱石の許しなしに「ホトトギス」に「倫敦消息(ろんどんしょうそく)」として発表します。「倫敦消息」に次のような一節があります。
「向こうへ出てみると逢う奴も逢う奴も皆いやに背が高い。おまけに愛嬌のない顔ばかりだ。こんな国ではちょっと人間の背に税をかけたら少しは倹約した小さな動物ができるだろう等と考えるが、それは所謂負惜しみの減らず口という奴で、公平な処が向こうの方がどうしても立派だ。何となく自分が肩身の狭い心持がする」
漱石は身長が157cmしかなかったからアングロサクソンが立派なのに驚いているのです。そしてショーウィンドウに映った自分の姿を見てこう書きます。「今度は向こうから妙な顔色をした一寸法師が来たなと思うとこれ即ち乃公(だいこう)自身の影が姿見に映ったのである。やむをえず苦笑いすると向こうでも苦笑いする。これは理の当然だ」。
ダーウィンの進化論をスペンサー(H.Spencer、英国の社会学者)が社会科学に応用した「社会進化論」は「文明国が野蛮な未開国を支配するのは当然である」という万国公法体系に結びつきましたが、そういう英国人の眼差しを漱石は過剰なまでに意識していたのです。
この当時欧米諸国では、日清戦争に勝った猿同然の日本人が攻めてくるという「黄禍論(こうかろん)」が叫ばれていました。日本人全体が井上ひさしのように見られていたんですね(笑)。心配しないで下さい私は井上ひさしの許しを得て言っているのです。
漱石は小説「倫敦塔(ろんどんとう)」の中で次のように書いています。「2年の留学中ただ一度倫敦塔を見物したことがある。…行ったのは着後まもないうちのことである。その頃は方角も分らんし、地理等はもとより知らん。まるで御殿場の兎が日本橋の真中へ抛り出されたような心持であった」。つまり日本に置き換えると人間と兎の差だと言っているのです。「表へ出れば人の波にさらわれるかと思い、家に帰れば汽車が自分の部屋に衝突しはせぬかと疑い、朝夕安き心はなかった。この響き、この群集の中に2年住んでいたらわが神経の繊維も、遂には鍋の中の麩海苔の如くべとべとになるだろうと、マックス・ノルダウの退化論をいまさらの如く大心理と思う折さえあった」。
マックス・ノルダウ(Max S. Nordau)はドイツの評論家で退化論(degeneration)を唱えた人です。ダーウィンの進化論は「悪い遺伝子を淘汰して優れた遺伝子が生き残る」即ち「文明は環境を変えることによって生きやすい環境を作る」と考えますが、退化論は悪い遺伝子が生き残って行きますから進化の逆行なんですね。ジェンナー(E. Jenner)の種痘はワクチン(抗原)の使用によって病原菌に対する免疫性を与えますが、これも退化論を支持するものです。
英国がトランスヴァール共和国(今の南アフリカ共和国)の金・ダイヤモンド鉱脈を狙って起こしたボーア(Boer)戦争(1899〜1902年)は、勝利したものの大苦戦を強いられ、後に建国した南アフリカ連邦の主導権はボーア人が握ることになりました。ボーア戦争を背景として、マックス・ノルダウは英国で大ベストセラーになっていたのです。因みに最近野口英世に圧倒されつつある千円札(1984〜2004年)の漱石の顔は痘痕(あばた)を修正した写真なのです。
「倫敦消息」(明治34)に戻りましょう。彼は日本とロシアの戦争の危機を予想して次のように書いています。「魯西亜と日本は争わんとしては争わんとしつつある。支那は天子蒙塵の辱めを受けつつある。英国はトランスヴァールの金剛石を掘り出して軍費の穴を埋めんとしつつある。この多事なる世界は昼となく夜となく回転しつつ波瀾を生じつつある間に、吾輩の住む小天地にも小回転と小波瀾があって、わが下宿の主人公はその膨大なる身体を賭して、かの小冠者差配と雌雄を決せんとしつつある。しかして吾輩は子規の病気を慰めんがためにこの日記を書きつつある」。
「天子蒙塵」とは天子が宮殿の外で塵あくたをかぶる(変事に際し難を逃れる)ことです。ロンドンの下宿は、TVのシャーロックホームズにも出て来ますが、借主がフロア毎に所有する持ちフロア制でした。その下宿の中産階級の大家さんが破産して家財道具を差し押さえられるので、下宿人と一緒に夜逃げをするんですね。当時の英国の法律は日の出から日の入までしか適用されず夜逃げしても咎められなかったのです。また漱石は初め建築学を目指した理系の頭脳の持ち主ですから、海の波は地球の自転と月の公転との関係で起きていることや、回転運動はどの微小部分を取っても回転運動であることを理解していました。それが「小回転と小波瀾」という言葉で表現されているのです。工学部の皆さんにいうのもおこがましいですが、コーヒーを掻きまわしてミルクを一滴垂らすと、どの部分にもミルクの小さな渦巻きができていることが分るでしょう。
漱石が英国へ留学した時期(1900年5月〜1902年11月)は大英帝国に翳りが出てきた頃で、七つの海を支配した大英帝国のヴィクトリア女王が亡くなったのが1901年です。20世紀初頭における英国の没落の萌しを感じた漱石は、日露戦争(1904〜05)に勝って列強の仲間入りした日本の将来を予見して警鐘を鳴らしています。ちなみに「20世紀」という言葉を日本に導入したのは漱石で、それを三四郎(明治41)の中で使っています。
漱石が帝国大学英文科講師(明治36〜39)のとき発表したのが「草枕」です。一人の西洋画家が九州の那古井という温泉を訪ね、出戻りの那美さんという女性と会って絵に描こうとするが、彼女の顔には憐れが欠けているため画けずに悩むという、粗筋はどうということのない話です。その終り近くの次の一節が漱石の近代文明批判として知られています。
「いよいよ現実世界へ引き摺り出された。汽車の見えるところを現実世界という。汽車ほど20世紀の文明を代表するものはあるまい。何百という人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で同一の停車場へ止まって、そうして同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗るという。余は積み込まれるという。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段を尽して個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏みつけようとする」。
これは今から99年前に書かれた文章です。汽車は近代文明であり国家です。鉄道帝国主義の国家は個人を平和な状態に置くと見せながら、実は破滅の戦争へ導いて行くとのだということを漱石は次のように予言しています。
「一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよというのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これより先へは一歩も出てはならぬぞと嚇かすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由をほしいままにしたものが、この鉄柵以外にも自由をほしいままにしたたくなるのは自然の理である。憐れむべき文明の国民は日夜に鉄柵に噛み付いて咆哮しておる。文明は個人に自由を与えて虎のごとく猛からしめたる後、これを檻穽の中に投げ込んで天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人を睨めて寝転んでいるような平和である。檻の鉄棒が一本でも抜けたら、世はめちゃめちゃになる。第二のフランス革命はこの時に起こるのであろう。個人の革命はいま既に起こりつつある。北欧の偉人イプセンはこの革命の起こるべき状態についてつぶさにその例証を吾人に与えた。余は汽車の猛烈に見境なく全ての人を貨物同様に心得て走る様を見る度に、客車のうちに閉じ込められたる個人と個人の個性に寸毫の注意をだに払わざるこの鉄車とを比較して、危ない危ない、気をつけなければ危ないと思う。現代の文明はこの危ないで鼻を突かれるくらい充満している。おさき真っ暗に盲動する汽車は危ない標本の一つである。」
イプセン(H.Ibsen)は女性の解放を唱えたノルウェーの劇作家で、漱石が「草枕」を発表した1906年に亡くなっています。ノルウェーはかつてスウェーデンとデンマークの属国で、1905年に分離独立した後、ノルウェーの国民は国家の庇護を受けられるようになりました。いま私達は国家の庇護を受けられないイラクその他の国民に対してどのような手を差延べようとしているのでしょうか。
2.講演2「ホウ素化合物(有機ボロン酸)の合成化学」
講師:宮浦憲夫 北大大学院工学研究科教授
〈講師プロフィール〉
北大工学部合成化学工学科昭和44年卒、同大学院MC修了。インディアナ大学博士研究員を経て現在北大大学院で有機工業化学講座を担当。平成7年度日本化学会学術賞を受賞。宮浦先生は鈴木章名誉教授(平成16年度学士院賞受賞)の共同研究者として鈴木カップリング反応を発見するなど有機ホウ素化学分野を開拓された。現在は有機金属化合物を利用する新しい有機合成反応、触媒プロセスの開発に従事。
〈講演内容〉
@鈴木カップリング反応
・Pd触媒を用いて有機ハロゲン化物と有機ホウ素化合物を結びつけるクロスカップリング反応で、抗がん剤やエイズ特効薬、液晶の製造等に活用されるなど有機合成化学や材料化学等の広い分野に大きな影響を与えた。
・鈴木章教授が1979年に報告し、“Suzuki Coupling Reactions”として世界に知られるこの反応は医薬品を含む数々の生理活性天然物合成に利用され、特に海産毒“Palytoxin”の全合成の最終工程を可能にしたことで世界的注目を浴びた。またアリール型ボロン酸のカップリング反応を用いるビアリール化合物の合成法は、近年注目されている芳香族系機能性高分子や材料開発に多大の貢献を果たした。
・アリールボロン酸は水や空気に安定で取り扱いやすいこと、また高い触媒効率、選択性や一般性を有していることから、医薬品・機能材料の探索研究や導電性高分子、LEDなど分子設計に基づくπ共役系高分子材料の開発を幅広く可能にし、米メルク社における血圧降下剤Losartan、独メルク社やチッソ鰍ノおける液晶など工業的スケールでの製造法にも採用されている。
A鈴木章名誉教授略歴
・ 昭和34年北大理学研究科博士課程修了、昭和36年工学部合成化学工学科助教授、昭和48年応用化学科教授、平成6年退官、その後岡山大学教授、倉敷芸術大学教授を歴任。
・ 昭和38年から2年間米Purdue大学H.C.Brown研究室博士研究員として有機ホウ素化合物の合成と利用に関する研究に従事、帰国後この分野を更に発展させて世界をリードする多くの卓越した業績を挙げた。
・ これらの業績に対して1986年米Weissberger-Williams Lectureship Award、1987年韓国化学会功労賞、1989年日本化学会賞、1995年米国Dow Elanco Lectureship Award、2000年the
H.C.Brown Lecture Award(米Purdue大学)、2001年The Distinguished Lecture Award(米Queens大学)、2004年有機合成化学特別賞、2004年日本学士院賞を受賞。2005年度ノーベル化学賞最終選考で惜しくも逸す。
Bヒドロホウ素化反応(Hydroboration反応)
・鈴木カップリング反応は、ビニル型ホウ素化合物と有機ハロゲン化物をPd触媒を用いてクロスカップリングさせ置換オレフィンを合成する反応で、ビアリールの合成にはこの反応がよく用いられる。ビニルホウ素化合物はアセチレンのヒドロホウ素化反応により合成できる。
・ヒドロホウ素化反応とはホウ素に有機基をつける反応で、不飽和結合にボラン(ホウ素の水素化物)が付加して、アルキルボランが生成する反応。
>C=C<+H-Br< → R-CH=CH-B<
Cクロスカップリング反応(Cross Coupling Reactions)
・有機合成化学において違うユニット同士を選択的に結合させる反応
・狭義には有機金属化合物と有機ハロゲン化物とを遷移金属触媒の存在下で反応させ、C-C結合を生成させる反応を指す。
Cat.
R-m+R´-X → R-R´+m-X
Cat.
R-CH=CH- m+X-CH=CH-R´ → R-CH=CH- CH=CH-R´+m-X
m |
触媒 |
カップリング名称 |
MgX´ |
Ni 触媒 |
熊田-玉尾-Coriuカップリング |
ZnX´ |
Pd触媒 |
根岸カップリング |
SnX´ |
Pd触媒 |
小杉-右田-Stilleカップリング |
Bn(OH)2 |
Pd触媒/塩基 |
鈴木-宮浦カップリング |
SiR X´ |
Pd触媒/F |
樋山カップリング |
D有機ホウ素化合物(有機ボロン酸)を用いたクロスカップリング反応(1979年に北大の鈴木-宮浦らによって誕生)
ビニル型ボロン酸を用いたジエン合成(有機ボロン酸のみでは金属交換過程のステップは進行しないが塩基の存在下でホウ素を活性化することで進行する)
Pd(PPh3)4
R-CH=CH-B(OH)2+Br-CH=CH-R´ → R-CH=CH-CH=CH-R´
Eアリールボロン酸とハロゲン化アリールからPd化合物を用いてビアリール(Biaryl)化合物を合成する鈴木カップリング反応
Pd化合物/Na2CO3
R-φ-B(OH)2+X-φ-R´ → R-φ-φ-R´
F応用例
鈴木カップリング反応をパテント化しなかったことは独立法人北大の最大の失敗例と言われることもあるが、パテントを取らなかったため技術が一社に眠らず全世界で応用されたことは成功だったと評価されている。
・ボンビコール(Bombycol)(蚕の性ホルモン)の合成
・パリトキシン(Palytoxin)(イソギンチャク類が含む毒)の合成
・独BASF社製Boscalid(野菜の殺菌剤)の合成
・ビアリール化合物のワンポット合成
・芳香族ボロン酸エステル、ビニル型ボロン酸エステルの合成
・π共役系高分子材料
ポリパラフェニレン、ポリピロール、ポリフェニレンビニレン
・液晶、有機EL等の機能性材料の探索研究・製造法
・農薬、医薬の探索研究
3.北大近況報告(応用化学コース専攻長 市川恒樹教授)
1)独立法人化で何が変る?
@公務員数削減
A上位下達方式の運営になった
B文部科学省の意向に敏感になった
・産学協同の推進、大学による起業
・特許取得の推奨
・外部研究資金の獲得
・任期制度の導入
・博士課程学生の充足(充足しないと潰すぞという脅し)
2)博士課程学生の充足(定員17、8名)
・社会人を迎える
・修士1年で飛び級入学
・博士2年で卒業も
3)ポプラ並木復活
・2004年9月8日の台風18号(風速50m/秒)で倒れたポプラ並木を復活させる「北海道大学ポプラ並木再生支援金」口座に2,000万円が集まった。
・手稲山へ向かう新ポプラ並木を植樹
4)工学部化学系学科の歴史
大正13年9月25日 |
北海道帝国大学に工学部設置 |
昭和14年4月11日 |
燃料工学科設置 |
昭和17年4月 7日 |
生産冶金工学科設置 |
昭和21年3月20日 |
燃料工学科を応用化学科に改称 |
昭和24年5月31日 |
新制北海道大学工学部・応用化学科、生産冶金工学科 |
昭和35年4月 1日 |
合成化学工学科設置 |
昭和46年4月 1日 |
生産冶金工学科を金属工学科に改称 |
平成 6年6月24日 大学院重点化に伴う 改組 |
3学科(応化・合成・金属)を2学科(応用化学科、材料工学科)に再編 |
工学研究科3専攻(応化、合成、金属)を2専攻(分子工学専攻、物質工学専攻)に再編 |
|
平成17年2月15日 |
応用化学科、材料化学工学科を応用理工系学科に再編。工学部は4学科16コース15専攻となる。 |
5)工学部応用理工系学科と大学院工学研究科との関係
工学部 応用理工系学科 |
大学院工学研究科 (修士・博士後期課程) |
応用物理工学コース |
応用物理学専攻 |
応用化学コース |
有機プロセス工学専攻 生物機能高分子専攻 物質化学専攻 |
応用マテリアル工学コース |
材料化学専攻 |
6)応用理工系学科応用化学コース教授陣(斜線:本日出席者)
専攻 |
講座 |
研究室 |
教授 |
助教授 |
有機プロ セス工学 専攻 |
有機工業 化学講座 |
有機金属化学 |
宮浦憲夫 |
石山竜生 |
反応有機化学 |
原 正治 |
仙北久典 |
||
有機合成化学 |
大熊 毅 |
|
||
化学工学 講座 |
化学システム工学 |
増田隆夫 |
辻俊郎 |
|
材料化学工学 |
篠原邦夫 |
中島耀二 |
||
化学反応工学 |
荒井正彦 |
下川部雅英 |
||
生物機能 高分子専攻 |
生物工学 講座 |
再生医療工学 |
棟方正信 |
田島健次 |
細胞培養工学 |
高木 睦 |
恵良田知樹 |
||
バイオ分子工学 |
田口精一 |
大井俊彦 |
||
分子機能 化学講座 |
高分子機能化学 |
覚知豊次 |
田畑昌祥 |
|
生物計測化学 |
上舘民夫 |
谷博文 |
||
分子材料化学 |
- |
佐藤信一郎 |
||
物質化学 専攻 |
機能材料 化学講座 |
電子材料化学 |
市川恒樹 |
小泉 均 |
材料機能化学 |
金野英隆 |
幅崎浩樹 |
||
界面電子化学 |
瀬尾眞浩 |
安住和久 |
||
無機材料 化学講座 |
構造無機化学 |
吉川信一 |
田村紘基 |
|
固体反応化学 |
嶋田志郎 |
明石孝也 |
||
無機材料化学 |
高橋順一 |
土田 猛 |
以上