巻機・苗場
H15.7.19〜21



『不可思議な山、苗場山(なえばさん)』

 夏山の舞台は上越国境へ移った。

 私たちの目的は、百名山と言ってもあまり知られていない、だが名前からして魅力的な巻機山(まきはたやま)だった。標高は2000mにちょっと欠ける1968m。ひかえめなところもいい。プランナーは巻機山の前に苗場山、後に谷川岳をセットして、3日間で3山登ろうという、いつもながら豪華な計画を立てた。まずは苗場山。

 私は「苗場」という山名にひっかかった。

 登ってみれば、山頂に広がっている高層湿原が「苗場」、つまり山名の由来だということは、誰でもすぐわかるだろう。そして、それは山の神様の「苗場」に違いない。考えてみると、高山植物が咲き乱れる高層湿原は、山の奥深くに隠されている楽園のようなものだ。だから、訪れた里の人たちは、そこに非日常的な、不可思議なもの、聖なる雰囲気を感じたに違いない。民話によく出てくる「隠れ里」とか、「あの世」とか、「神様の住む地」といったイメージは、里の近くにも日常生活から離れた場所があり、そこから神秘的な何かが里に下りてくるのだと考える心情が先にあって、そこに現世から隔絶したかのように美しい花々が咲き乱れる湿原に迷い込んだ体験が、民話に結露したのではないだろうか。そう考えてみると、美しい高層湿原は昔から里の人たちにとって、精神の一つの拠り所だったのだろう。

 だからなのか、高層湿原の名称はその有り様を表現しながらも、美しい響きを与えてくれる。東北から上越にかけて、私たちが訪れたことのある高層湿原の名前を思い出してみよう。稲作に結びついて「○○田代(たしろ)」や「○○岱(たい)」、「御田」、「御苗代」と呼ばれているもの、沼や芝草を名にしているものなど、様々な名前で呼ばれている。例えば、「○○谷地(やち)」や「○○萢(やち)」、「毛無岱(けなしたい)」と呼ばれるのは八甲田の高層湿原。「千沼ヶ原」は乳頭山。「芝草平」は南蔵王。山岳信仰の聖地「弥陀ヶ原」は月山。

 私たちがたどった祓(はらい)川コースで、初めて苗場山の山頂を仰ぐのが神楽(かぐら)ヶ峰というピークだった。今思うと、神々が田植えをする「苗場」へ向かって神楽を奉納する場所だったのだろう。麓の人々にとって苗場山は神聖な山なのだ、と書き始めながら思った。

 さて初日は、東京に出てきている鹿児島の夫婦と埼玉・千葉の2人が乗った上越新幹線に、東北組の2人が大宮駅で乗り込むところから始まるはずだった。ところが、郡山駅で東北新幹線に乗り込もうとした東北組の1人が、せっかく手配した予約切符を三春町の家に置いてきたハプニングに見舞われたから大変。大事に、大事にすると、かえって忘れてしまう、うまくいかないことがずいぶんとあるものだ。越後湯沢行きの切符をあらためて買ってから乗り込み、家と携帯電話で連絡をとる。「ついてない。ついてない。」 「いや、始め悪けりゃ、後はどんどん良くなるものさ。」 「そうかなあ。」

2人の会話は盛り上がらない。前夜祭の楽しさも吹き飛んでしまった。しかし、大宮駅で合流すると、東京組のにぎやかさ、浮き浮き感が次第に伝染してきた。こういう伝染ならおおいに歓迎というものだ。

 上越国境の長いトンネルを過ぎ、私たちは越後湯沢駅で降りて、東京からジープを運んできたもう1人と合流した。都合7人。梅雨明けが遅れているせいか、空は雨を持った雲で覆われていた。いくつものスキー場を横に見ながら、私たちを乗せたジープは祓川コースの和田小屋へ向かった。林道に入ってからまもなくゲートがあり、2人の老人が番をしていた。聞けば、山菜採りを規制しているので、登山者は通行可だった。だんだん雨が近づいてくる気配の中、ジープは和田小屋に着いた。風も出てきた。まあ雨が強くなれば下りようか、と胸の内。

 登山道は沢に沿って登って行くが、尾根の上はスキー場が続いている。しばらく歩くと、果たして小雨が落ちてきた。雨具を着込む。やがて、スキーコースを横切ると「下の芝」。スキー場の上へ抜けると「中の芝」、「上の芝」が待っていた。いずれも小さな高層湿原だが、林の中から「芝」へ出ると、不意に視界が広がって、開放感を味わう。花はそう多くない。やがて雨も上がり、「上の芝」からは展望のよい尾根道になった。右に小松原湿原への道を分けると、緩やかな神楽ヶ峰の頂に着いた。振り返ってみたが、上越国境の山々は厚い雲に覆われて、谷川岳も巻機山もわからない。

 しかし、前衛峰(ぜんえいほう)の神楽ヶ峰を越すとすぐに、どっしりとした苗場山の北西面が見えてきた。手前の鞍部(あんぶ)からは200mほどの高度差がある。苗場山は平坦な山頂を持つ山とばかり思っていた私たちは、この雄大な山容に魅了された。一度、雷清水の水場を過ぎてから鞍部に下り立つ。中学生の一隊が休んでいる中を、稜線の登りにかかる。引率してきた先生の指示が出た。元気のある者だけが短時間で登るように。一部の男子生徒が立ち上がった。いや女生徒もいるようだ。元気のいい生徒たちが追い越して行ったが、私たちは自分のペースを守りながら登り続ける。稜線は登れば登るほど急に、そしてやせ尾根になってきた。途中で皆が足を止める場所があった。小さな岩穴の奥に光苔があるという。昼の明るい光の中ではよくわからないが、苔は確かにあった。

 この北西稜を登り詰めると、私たちは見渡すかぎり高層湿原が広がる台地にいきなり飛び出した。正面にも、右にも、左にも、山頂の高まりはない。息せき切って登った「気」がしだいに静まって行く。しかし、いつも味わえる登頂の喜び、あの満足感はやってこなかった。どっしりとした山の鋭い稜線をあえいで登った後の解放感よりも、脱力感の方が私たちの気持に広がっていた。険しさから平坦へ。あまりにも極端な変化。

 こんな不可思議な山もあるのだ。張り詰めた気を失ったまま、高層湿原の木道を歩んでいく。平坦な山頂の標識まで。

 私たちも不思議な世界に入ってしまった。山頂の台地に飛び出した途端、思わず「ここはどこだ?」 「私たちは険しい山を登っていたのに、なんとかけ離れた世界へ迷いこんだのだろうか?」と思うのも当然だ。まして、昔まだ登る人もいない時に、1人でさ迷いこんだら、その衝撃はことのほか大きかったことだろう。それが別世界に迷い込む民話の素材になり、神々の領域である「苗場」の信仰へ結びついたのだろう。

 私は、あらためて山の不可思議さを思った。不可思議な山、苗場山。驚きを受けた山だった。

 そして、私の山日記には次の記録が残った。

 梅雨明け間近、上越国境の山々へ入る。まずは苗場山。

 私たちは不可思議な山を登っていた。険しい稜線を上がると、そこには広大な高層湿原が広がっていた。垂直から水平の世界へ。民話の世界を感じた一日だった。

2003.7.19
9:30  和田小屋発
10:30  下の芝
 11:50  神楽ヶ峰
13:00  山頂着
14:00  山頂発
  17:00  和田小屋着

登り  3時間30分
昼食     1時間

  下り     3時間
  計      7時間30分

(追記)

 江戸時代の天保年間に、越後の国人、鈴木牧之が「北越雪譜」を書いている。その中に「苗場山」の項があった。牧之が案内人を雇い、友人と苗場山に登った様子を書き記しているのだが、私たちと同じ祓川コースから山頂を往復していた。

 一節を引用してみる。

「苗場山は越後第一の高山なり、登り二里という。絶頂に天然の苗田あり、依て昔より山の名に呼(よぶ)なり。峻岳の嶺(いただき)に苗田ある事甚(はなはだ)奇なり。」   

 そして、麓の湯沢町三俣を暁に出て登り始めるるのだが、高所にたどり着いて次のように書いている。

「…暫(しばら)く憩(やすらい)てまたのぼりのぼりて神楽岡(かぐらおか)と言うところにいたれり。これより他木さらになく、俗に唐松といふもの風にたけをのばさざるが梢は雪霜にや枯らされけん、低き森をなしてここかしこにあり。またのぼり少し下りて御花圃(はなばたけ)という所山桜盛(さかり)にひらき、百合、桔梗(ききょう)、石竹(せきちく)の花などそのさま人の植えしなひしに似たり。名をしらざる異草もあまたあり、案内者に問えば薬草なりといえり。またのぼりゆきゆきて桟(かけはし)のようなる道にあたり、岩にとりつき竹の根を力草(ちからくさ)とし、一歩に一声を発しつつ気を張り汗をながし、千辛(せんしん)万苦(まんく)しのぼりつくして馬の背をいふ所にいたる。左右は千丈の谷なり、ふむ所僅かに二三尺、人脚(ひとあし)あやまつ時は身を粉砕(こな)になすべし。おのおの忙怕(おづおづ)あゆみて竟(つい)に絶頂にいたりるきぬ。」

 少々長くなったが、苗場山の祓川コースは基本的には変っていないことがよくわかるし、簡潔で要所を記した文章に強い共感を覚えるのは、私たちも実際に登ったからだと思う。そして、昔人(せきじん)の名文を読むことで、百年も二百年も変らない悠然たる大自然のさま、時代が大きく変っても登った者の抱く印象・想いが同じだということに深い感慨を味わう。今後、何遍も何回も「名山」を登り、古本で学習を深めることで、大自然とヒトとのなにか安定した関係に目が覚めることだろう。

 そんな、根源的な予感が産まれてくるのに気付きながら、私は「北越雪譜」の本を閉じた。

 雄大で不可思議な苗場山を登ってから、すでに一年(ひととせ)が過ぎ去った初秋の夜だった。

『ビロードの巻機山(まきはたやま)』

 急傾斜の井戸尾根を4時間近くもかけて登り切ると、1861m、前巻機のピークに出た。巻機山の頂はこの先だとは分っていても、ホット一安心。おもむろに視線を上げると、そこには美しい山容が広がっていた。深い米子(こめこ)沢を隔てて、オオシラビソの矮小化した針葉樹林は濃い緑、笹藪は灰色っぽく沈んだ緑、そして草付きは明るい冴えた緑。巻機山本峰の南斜面が広がっていた。なんと草付きが広い斜面だろうか。冬期の積雪は笹の生育をさえ許さないほど深いのだろう。巻機山はモスグリーンのドレスを纏(まと)っているように思えた。美しい、女性的な山だ。

 やがて、私たちは地元から登って来たらしい小学生とその先生たちに混じり、前巻機から竜王の池を過ぎ、巻機山本峰へと登って行った。水分を多めに含んでいるものの、空は穏やかに晴れ、終日楽しい山登りを約束してくれていた。山頂に立っても、私は広い草付きの斜面を見下ろしていた。これがこの山の魅力なのだと。

前日、苗場山を順調に登っただけに、朝の目覚めはさわやかだった。宿舎の六日町温泉を5時にスタートして、登山口の桜坂駐車場には6時前に着いた。薄曇の空は柔らかで、暑さを感じさせない。割引沢への分岐を過ぎてしばらくすると、急な登りが始まった。今日は標高差1200m以上を登るのだから、気を入れてしっかりと足を踏み出す。六合目までは林の中をひたすら登る。六合目の展望台へ着くと、足元から切れ落ちているヌクビ沢の対岸に、いきなり巨大な岩峰が聳(そび)えていた。天狗岩。巻機山のもう一つのシンボルだった。ヌクビ沢と割引沢に挟まれた狭い尾根に、天狗岩が荒々しく屹立(きつりつ)していた。ヌクビ沢は残雪に覆われていた。

六合目を過ぎると、登山道の傾斜はいよいよきつくなる。七合目あたりからは潅木になり、視界が開けた。その分、暑さを感じながら、私たちは一歩、一歩、前巻機のピークに近づいて行った。別名、ニセ巻機へ。

 前巻機まで登ると、心も体もずいぶんと軽くなった。一呼吸、一休みした後、避難小屋の向かいにある小雪渓で水を汲み、二つある「竜王の池」の池塘(ちとう)の脇を巡ってから、最後の登りにとりかかった。池塘には、件(くだん)のごとく稲に似た水草が、まるで植えられたかのように生えていた。

 立ち止まり、ゆっくりと後を振り返りながら登りきると平坦な尾根に出て、巻機山頂の標柱が私たちを待っていた。山頂は登山者でいっぱいだった。私たちも一隅を確保して、さっそくお祝いの乾杯を始めた。隣では、小学生を引率してきた先生やPTAだろう、豚汁をつくり始めている。にぎやかな雰囲気の中、手足を伸ばし、ゆっくりと景観を楽しんだ。

 やがて、寝ている方がいいという荷物番を置いて、何人かは周囲を散策し始めた。私も、歩いてみた。割引岳が三角錐の頂を見せているが、どうもこの山頂よりは高く感じる。そして、割引岳とは反対の方に向かうと、ゆっくりと登り始めた。その先にはゆるやかな高まりがある。どうも、私たちの山頂より高い地点がありそうだと思い始めた時、ゆるやかな高まりから下りてきた2人の友と出会った。「もう、下る時間だな。」と友。

「ああ。」 私はゆるやかな高まりを登らずに、友と一緒に下りて行った。

 空は依然として穏やかで、大気は湿っていた。その中を、満足した私たちは足取りも軽く下りていく。下りの七合目からは、米子沢そして登山口の砂防ダムが、すぐ足元に見下ろせた。足をとられると、滑り落ちていきそうだ。あらためて、すごい急斜面だなと感じながら、慎重に下りて行った。

 

 さて、下山して、家でゆっくりとガイドブックを開いている時に気がついた。実は、巻機山の山頂を踏んでいなかったのだと。私たちが辿りついたのは、「御機屋(おはたや)」という地点なのだが、地元では「御機屋」を昔から山頂としていたのだという。本当の山頂は、例のゆるやかな高まりだ。まあ、仕方がない。「御機屋」は、機を織る時に神聖な場所として定めた一室だというのだから、この巻機山の核心には違いない。この高度差、上越の奥の山という位置からすれば、再び訪れることもないだろう。

 巻機山はいい山だった。久しぶりで山の奥懐に入り、ビロードの草付きに魅了された。

こんな山を探しながら、山旅を続けてみたい。

 

そして、私の山日記には次の記録が残った。

 上越の奥山、巻機山を登る。厳しい高度差と急斜面にあえぎながらも、ビロードのような広い草付きの鮮やかさに魅了された。夏は、美しい、女性的な山ながらも、冬は信じ難いほどの積雪が全山をすっぽりと覆うことだろう。

 

2003.7.20
6:00  登山口発
9:40  前巻機
10:20  山頂(御機屋)着
11:30  山頂(御機屋)発

15:00  登山口着


登 り   4時間20分

  昼食     1時間10分
  下り     3時間30分
  計      時間

 



    苗場山へ

h15.7.19

雲の中、苗場が見える

「苗場ってスキー場じゃないの?」
「そういえばいつかスキーに来たぞ」
「いやいや、それがねえ、スキー場は下のほうだけなんだよね。ただ、だいぶ歩いてスキーのリフトの終点があるのにはまいるけどね」
奥さんの実家が新潟で、苗場に登ったことのある、運転手の話を聞きながら登山口に向かった。
最初の駐車場を素通りして車は進む。
「えー、まだ行けるの?みんな車を降りて歩いているのに・・」
「この上に駐車場があるから大丈夫。これ、歩いたら1時間は違うよ」
さすが経験者はよく知っている。少しでも楽をしたい我々はすぐ、楽なほうに流れてしまう

おいしかった雷清水

山頂はなだらか

上の駐車場にもたくさんの車が止まっている。
今日は連休の初日。登山客も多そうだ。
スキー場の脇から登山道に入る。天気はあまりよくないが、まあまあ持ちそう。久しぶりに会ったみんなの話が弾む。
1時間ほど歩いたころ、左手に建物。「これがスキーのリフトの終点だよ」運転手の声。
さあこれからが本番。我々も気を引き締め歩きつづける。
登ったり下りたりしながら、歩いていく。雷清水の付近で団体に追いつく。どうやら地元の中学生達らしい。この、大人数を追い越すのは容易なことではないだろう・・・と雷清水でゆっくり休憩を取る。
冷たい水が火照った体に心地よい。

ゆっくり休んで、さあ出発!・・・と歩き出すと何の事は無い。先程の中学生達が少し下りたところで休んでいるではないか!!あと一息だと思うのだがもうお弁当を広げている子もいる。
「もうすぐだよ。頑張ろうね」声をかけながら追い越す。
しばらく歩くと緩やかな山頂部分に取り付く。
もうあとは楽なもの!!付近の山々が見え、写真を撮りながらのんびりと行く。
小屋も見えてくる。山頂はなんと小屋の後ろ!!

苗場山頂は小屋の後ろ!

小屋の後ろで記念の写真を撮り終えた我々は食事の場所をさがす。
どうも小屋の後ろというのはイメージ的にいまいち!!その上展望もない。
誰かが「あっちが良さそうだ」というのでついて行くと湿原を見晴らす展望台のようなところにベンチがあり幸い場所もあいていた。難点は売店が無いこと。しかしそれはよくしたもの。我々の中で1番若い(・・・といっても1.2歳のことなのだが、もともとが学生時代の仲間のグループなので後輩はいつまでたっても後輩!!)A君がビールを買いに戻る。

ビールがくればいつものとおり宴会!!
コンビニで買ってきたつまみやおにぎりもみんなで食べるとおいしい!!
ビールが終わると隠し酒が出てきて、延々と飲みつづけてしまう!!
これが山の楽しみだ。

夜はヒイラギ山荘に戻り、宴会。
某水産会社のお土産がどっさり。かにがおいしい!!

ヌクビ沢にはまだ雪渓が・・・

次の日は捲機をめざす。
昨日は中学生だったが今日は地元三条高校の学生が登ってくる。5人ずつの2パーティーに分かれているからインターハイか何かの練習だろう。
「9時50分到着」「9時50分到着」「9時50分到着」「9時50分到着」「9時50分到着」
「9時55分出発」「9時55分出発」「9時55分出発」「9時55分出発」「9時55分出発」

全員で復唱しながら登っている。

我々の頃にはこのような競技はなかったが、学生時代を思い出し「9時58分出発」と言ってみる。

巻幡へ、登りはじめは小雨

山頂に向け最後の登り

でも、誰も復唱してくれない!!

「だめだよ。もうみんな復唱できるほど記憶力がなくなっているのだから・・・」一番若いA君がいう。


そういえば今回は参加してない精神科医のA子ちゃんが言ってたっけ!!
ボケを調べるために会話の最初に「さくら、ねこ、でんしゃ、って覚えておいてくださいね。」
しばらく別の話をした後、「さっき覚えておいてくださいといったのはなにでしたか?」と聞くと思い出さないのがボケの始まりだとか・・・

「そうだったねえ、さくら、ねこ、でんしゃ、さくら、ねこ、でんしゃ」お経のように唱えながら最後の登りを登る。

巻幡山頂にて

山頂は人でいっぱい。
順番待ちで写真を撮る。
下りかけるとガスが出てきた。
なんと心がけのよい私たち!!

振り返って巻幡山頂

あらら?靴底が・・・

下に着く頃Tさんの靴底がパックリ!!
そういえば下りがなんとなくぎこちなかった。
きっと歩きにくかったのだろう!!
折りしも六日町の花火大会
今年の朝ドラは、六日町の花火師が準主役だったから盛り上がっていることだろう!!
宿のご主人も我々を残して花火見物に行ってしまった。



次の日は谷川岳の予定だったが、朝目覚めると雨!!

谷川は近いからまだいつでも登れる・・・いや、もう登ったことがある・・・いろいろな言い訳が飛び交い、結局谷川はおながれ。次の機会に・・・ということになった。

お世話になったひいらぎ山荘


自称おそば通の面々

〆めは、やはりおそば。
でも「元祖八海そば」がなかなか見つからなくて探しまわった。