岩手山・八幡平
H13.9.22〜24
『快い岩手山』
岩手山は大きい。
秋田県との県境にではなく、北上盆地の中、せいぜい標高300mの平野から、高さ1,700mのコニーデが、いきなりそびえている。山の周囲はすべて岩手県。そして、盛岡市を始めとする内陸地方のどこからも望めることができる。だから、この地を始めて訪れる旅行者も、「岩手山はシンボルだ!」と実感するに違いない。
岩手山の存在は大きい。
一つの県を代表するシンボリックな自然は、その土地の精神風土となり、人々の人格形成に、そして文学や美術などの芸術に大きな影響を与え続けてきた。例えば、私の住む山形県では、県内のほぼ全域を潤す最上川が「母なる」の枕詞(まくらことば)をつけて呼ばれている。山形県が生んだ歌人、斎藤茂吉にこんな歌がある。
最上川 逆白波(さかしらなみ)の立つまでに
吹雪く夕べとなりにけるかも
冬季、北西の季節風が最上川の谷を吹きあがり、川面に白波を立てて吹雪が襲来する様(さま)を描いている。墨絵のような情景。北国の厳しい冬を描いた、私の好きな歌の一つである。
岩手県を代表する歌人、石川啄木の歌もいい。
ふるさとの 山に向かいて言うことなし
ふるさとの山はありがたきかな
ここには、長年ふるさとを後にしていた旅人の姿がある。そして、「ありがたきかな」の言葉に、岩手山と啄木との関係がすべて表わされている。岩手山と北上川。啄木の身体(しんたい)や精神を育んでくれたこの大自然に向かう時、言葉は不用だった。いや、言葉にならないほどの感慨が心の底から湧いてきたのだろう。
楽しかった岩手山と八幡平の山旅を終え、友と別れて高速道を南へと走る。いつまでも、バックミラーに写っている岩手山を見ながら私は思った。このうえもなく楽しく幸せな3日間だった。そして、私の宝石がまた一つ増えていた。
先発隊 姫神山にて |
3連休の初日、9月22日午後3時に、私たち7名は盛岡駅に集合した。早朝から姫神山へ登っていた先発組の3名とは、彼らが下山したところで連絡がとれた。私たちは車に乗り込み、待ち合わせ場所にした西根町の「道の駅」へと向かう。今回の参加者は10名。今までで最も多くなった。みんな、学生時代を札幌で一緒に過ごした仲間たち。北は札幌から、南は鹿児島から集まってきた。
盛岡市街の北西には、頂を雲に覆われた岩手山がドーンと座っている。標高2,038m。圧倒される。これが第一印象だった。黄金色の平野を北へ走り、道路に身を乗り出して待っていた先発組と合流した。先発組はもう温泉に入って汗を流していた。2台の車は、今夜の宿「焼走り(やけばしり)」の国際交流村に向かって、岩手山の裾野を上がって行く。
今回の計画は、盛岡市に実家のある秋田県の友がたててくれた。私が希望した「焼走り溶岩流」を横に見ながら岩手山を登るコースをとるため、22日は国際交流村のキャビンに泊まり、23日は岩手山頂を往復する。そして、八幡平の山頂近くにある標高1400mの藤七温泉に泊まり、24日は八幡平を周遊し、日本で初めての地熱発電所のある松川温泉を経由し、盛岡市で冷麺を食してから解散するのだった。
「焼走り溶岩流」は、1719年に岩手山の北東斜面から噴出し、押し出された溶岩流が広がった、長さ3km、最大幅1kmの荒涼とした黒色の溶岩原で規模が大きく、特別天然記念物に指定されている。大自然の奇景に接するのも、登山の楽しみに違いない。その「焼走り溶岩流」の右隣に接している登山口を見ながら、国際交流村のキャビンに着き、荷物を運び入れるやいなや、私たちの宴は始まった。
みんな、自分がすべきことを心得ている。昔の上級生は部屋の奥にどっかりと腰を下ろすと、すぐにビールを注ぎあっていた。今夜のメインディッシュは山形の「芋煮会」に秋田の「キリタンポ鍋」。私たちの「紅一点」と元下級生の「食品屋さん」は、山形人と秋田人の指示のもとニコニコとして鍋をつくりはじめた。そして、酒の肴を次から次へと、先輩たちが待つテーブルに運んだ。みんなのコップにビールがゆきわたると、再び乾杯。元上級生の埼玉人は、これまでみんなが楽しんだ山旅の記念に、記録アルバムをみんなの数だけつくってきてくれた。私も学生時代のアルバムを持ってきていた。飲みながら、語りながら、思い思いにアルバムを眺め、日本酒を空け、二つの鍋を平らげる。明日のおにぎり用のご飯も炊いた。
騒々しい中、いくつもの作業が手際よく行われていった。今夜は、10人が一同に会したことが楽しく、そして素晴らしいことなのだ。明日、明後日も一緒に登り、食べ、飲み、眠ることができるのだ。「快い」3日間は今始まったばかりだった。誰もがそのことを思い、心は踊っていた。 |
夜がふけても、空には雲一つなく、月の光を浴びて岩手山は近くに低く見えている。夜気はしんしんと冷えてきたが、温泉にも入った。友の暖かさでキャビンは温もり、蒲団の中では快い眠りが満ち足りた私を待っていた。
私たちは、特別天然記念物の見学を始めた。見事に一木一草もない、黒いごつごつとした溶岩が一面を覆っている。「300年もたっているのに、なぜ植物が侵入できないんだ。」と一人がつぶやいた。私も登っている間、この疑問が頭を離れなかった。盛岡市の博物館にでも寄れば、その答があるのかも知れないが、後の楽しみにとっておきたい。
6時10分に登山口を発ち、なだらかな登山道を私たちにしては速いペースで歩きはじめた。左は「焼走り溶岩流」。右は白っぽい肌の太いミズナラが林立している。ウリハダカエデという名の、ウリのように途切れ途切れの縦縞が緑の木肌に入った、特徴のあるカエデの木が溶岩流の脇に多い。ブナの木はほとんど見当たらなかった。ウーン、火山の植生は違うのか!
やがて、少しずつ傾斜がきつくなってきて、溶岩流の噴出口の一つ目、「第2噴出口」に着いた。ここで朝食をとる。第2噴出口からは、溶岩流の全景が眺められる。溶岩は急傾斜の山肌をまっすぐ流れ下り、平坦になった麓で横に大きく広がって止まっている。まだ緑の森の中に、溶岩原が黒く大きな虚域をつくっていた。昨夜、元下級生たちがつくってくれたおにぎりをほおばりながら、暖まってきた朝の大気を楽しむ。
第2墳出口にて・・山頂はまだ遥か
第2噴出口の上から樹木は矮小化し、黒い火山礫(かざんれき)が道を覆っている。見晴らしがだんだんとよくなってきた。そして、山頂近くの山小屋に泊まっていたのだろう、地元高校の山岳部員と何回かすれ違うことになった。高校生のよいフィールドなのだ。私たちは逃げる砂礫を踏み締めながら、大きな岩手山の山腹を右手に、北へ北へと回り込みながら登って行く。
登山道は、第1噴出口までは樹林帯、第1噴出口から上坊口分岐までが砂礫地、そして上坊口分岐から平笠不動平まで再び樹林帯となり、そこから山頂までは再び砂礫地となっている。興味深い。まず、上坊口分岐までの直線的なトラバースを、踏み出した靴底の下で動く砂礫を押し蹴りながら、一歩、一歩登って行った。ここには風をさえぎる潅木もない。夏はさぞ暑いことだろうと思いながら、左の斜面を見上げると駒草の小さな茂みがそこ、かしこにあった。そうだ、駒草は裸の砂礫地が好きなのだなと思い出していると、花の咲いている茂みを見い出した。すぐ先を歩いていたおばさんたちも気がついて、喜びの声をあげている。私も微笑む。こんなにも駒草の花期が長いとは思わなかった。すぐ上の樹林帯では、今朝の冷え込みで霜が下りたのだろう、登山道の脇に生えている蕗(ふき)の葉が枯れていたのに。
駒草の花にはげまされて休まずに登ると、上坊口分岐に着いた。小休止。この付近から再び樹林帯が始まるのだが、第1噴出口の広葉樹林とは異なり、オオシラビソとダケカンバの亜高山樹林帯になってきた。傾斜がきつくなり、道はジグザグを繰り返しながら登り始める。やがて急斜面の中、木々の間に始めて展望できる場所に出た。北方に岩木山の鋭い頂と八甲田山の峰々が望まれる。やっと、この山の高みに登ってきたのだと思うと、思わずみんなに声をかけた。「岩木山が見えるぞ!」と。次々と登ってきた友たちは背を伸ばし、あれが岩木山、あれが八甲田山と指す。そして、ザックを下ろして休むでもなく、また登り始める。
最も体力がある強力役の一人はみんなの食料を背負って、一人でどんどんと登って行った。そして、私たちのパーティはだんだんと長くなり、標高を示す計器のGPSを持った友は遅れがちになったが、やさしい元下級生が気づかってついてくれることになった。私たちの一行は7名。平笠不動平の入り口に着くと、その先、小屋まで続く道は入山禁止になっていた。そう、岩手山の西側は火山活動が活発なので、入山禁止になっていたのだ。ここまで来ると、確かに西側の黒倉山方向に噴煙が見える。そして登山道の脇には「火山活動警報装置」とでも言うのか、太陽電池と無線アンテナそれにサイレンと旋回灯が備え付けられていた。
岩手山西側。 噴出口の前に小屋が見える。 |
矮小化したオオシラビソの林に新しく切り開かれた登山道を抜けると、ついに森林限界を越え四方の展望が開けた。西望すれば、噴煙の手前に火口湖の「お釜」や湿原らしい草原が望まれ、岩手山の西半分は変化に富んだ山上の楽園だということがよくわかる。再び始まった砂礫地を登ると、北には岩木山や八甲田山、南には隣の秋田駒ヶ岳。遠くに鳥海山が眺められる。動悸を静めるために小休止するのか、景観を楽しむために足を止めるのか、わからなくなってきた。やがて、山頂部の外輪山にたどりつく。
これで、今日の登りはほぼ終わった。あとはゆっくり外輪山をたどりながら最高地点の山頂へ向かうだけだ、と誰もが安心したのだが、意外な光景が私たちを待っていた。外輪山の登山道は、柳沢ルートから続々と登ってくる人が目の前を過ぎて行く。そして、狭い頂には「人だかり」と言ってよいほど、休んでいる人々が見える。おかげで私たちの満足感はずいぶんとしぼんでしまった。まるで、私が子供だった頃の小学校の運動会で、PTAの応援席にびっしりと詰めかけた親たちのように、頂には腰を下ろした大人たちがひしめいていた。そういえば、昔の運動会は大事なお祭りで、町中が一日中にぎやかなものだった。そして運動会用の白い足袋をはいた私には、昼時に母がつくってくれた巻きずしやお稲荷さんを重箱から思う存分食べられる大切な日だったことを思い出す。大人も子供も、楽しい一日をなごやかに過ごしたものだった。
久しぶりの解禁で |
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頂に登りつめ、喜びを分かち合う。おかしなものだ。手を伸ばせば届く距離にいながら、会釈をするわけでもなく、話をするわけでもなく、冷たい感じのする個人主義者が大勢並んでいる。例えば、長いベンチがあって、何人かが腰をかけるとしよう。1人目はどこかに座り、2人目、3人目と座って行くとすると、互いに手を伸ばしても届かない距離を置いて座ることに気づくはずだ。一動作目では侵されるはずのない距離が人を安心させ、余裕を持たせる。しかし、どんどん座る人が多くなると、距離は片腕分に縮まり、やがて満員電車のように肩がつくほどになる。すると人々は警戒心が強くなり、冷たくよそよそしくなってしまう。岩手山の頂では、周囲の雄大な景観にふつりあいな、よそよそしい雰囲気の中、仲間内だけの会話が飛びかっていた。
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岩手山山頂にて |
ともかく、私たちは2、038mの最高地点まで登り終えたのだ。11時45分。いぜんとして微風快晴。おだやかな秋の日を浴びながら、ゆっくりと昼食を用意する。いつもながら、泡だらけのビールで乾杯をする。今日は、日本酒にチューハイ、ワインそして非常用のブランデーと、量は少ないが種類は豊富だ。お湯を沸かしてスープをつくり、ラーメンをゆでてみんなで分かち合う。もちろんおにぎりもおいしい。
雄大な景観を眺め、眺めし、友と楽しみながら、ゆっくりと岩手山を下りて行く。快い岩手山の一日がだんだんと終わっていった。
リタイヤした友が待っている!! |
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終日、微風快晴にして、秋の日はやわらかだった。
10人と多くなっても、快さは変らない。
楽しさは、一層深まり、宝石のような想い出が残った。
6:10 焼走り登山口(590m)発 11:45 山頂(2038m)着 (お鉢巡り) 13:30 山頂発 16:25 焼走り登山口着 |
登り 5時間35分 昼食等 1時間45分 下り 2時間55分 計 10時間15分 高度差 約1448m |
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岩手山登頂後、八幡平にある籐七温泉彩雲荘へ |
八幡平は山というより、湿原の公園・・・?? |
期限付き解禁!岩手山