会津駒・平ヶ岳・魚沼駒ヶ岳
H14.7

山上の楽園・会津駒ヶ岳

 「いかにも陳腐(ちんぷ)だね。もっと気の利いた題はないの?」

 「うん。感動してしまうとそのものずばりの文句しか出てこないんだ。」

 「そんなものかな?まあ、題は後でも変えられるから、文章が問題だね。」

 夢の中で、友とそんな言葉をかわしたように思う。

 そう、会津駒ヶ岳の急な尾根を登り詰めると、そこには夢の中に出てくるような世界が広がっていた。

 まず、檜枝岐(ひのえまた)という村から始めよう。尾瀬の入(はい)り口として著名になったこの村は、北緯37度線で日本列島を切るとその最奥部、東北・関東地方そして新潟県の三方境(さんぽうざかい)に位置している。私たちは北から東から峠を越え、谷沿いに車を走らせて、やっとたどりついたのだが、左右を標高2000m以上の山々に囲まれた、伊南(いな)川の狭い谷あいに檜枝岐の小さな集落はあった。車でゆっくり走っても、ものの3分もかからないで集落を抜けてしまうだろう。尾瀬の燧岳(ひうちがだけ)から発した伊南川は只見川に入り、やがて阿賀川と合流し阿賀野川となって日本海に注ぐことになる。しかしこんなに山奥では、日本海へ入ろうが、太平洋へ注(そそ)ごうが、考える気にもならない。

 私たちがここ10年ほど楽しんでいた「温泉と地酒と蕎麦の山旅」も、四年前の秋田駒ヶ岳から参加者が8名前後に増え、三年前からは夏と秋の2回、山旅を行うようになっていた。大学時代のクラブ仲間だから、気心が知れ、遠慮のいらないことは言うまでもない。20年振り、30年振りに再会した者もいるのだが、まるでジクソーパズルのように、みんなが自分の役割を果たし、隙間があくと誰かが埋めてくれる。計画を立てる者、車の運転をする者、酒と肴を用意する者、楽しそうに飲み笑う者、人の分まで荷を背負う者、会計をする者、紀行文を書く者、そして飲み過ぎをたしなめる役まで。楽しいだけではない。みんなに安心感がある。

桧枝岐民宿「吉田屋」に集合

 会津と越後の山に登ろうと、東北から、東京から、そして遠く九州から檜枝岐村の民宿に集まった7人は、翌朝4時には起き出した。窓から入る風はやけに肌に涼しい。前夜、予定どおりに寝た者は手際よく、二次会で冷(ひや)酒を干すのに固執した者はゆっくりと準備を終えた。全員が一台のワンボックスカーに乗り込み、村のすぐ下流側にある入り口から林道を登って行く。すでに、登山口の周囲は止めてある車でいっぱい。なんとか少し下に車を止め、登山口の木製の梯子(はしご)を登り始めたのが5時30分だった。登り始めの30分、1時間は、二日酔にはきつい。登山口から続く急勾配にびっしょりと汗を流し、新陳代謝が進んだ1時間半後にやっと二日酔から解放されてくると、すでに中間地点の水場まで来ていた。今日は大気に水分が多いのだろうか、周囲の山々は薄い雲に覆われては、時々その姿をあらわしている。今日一日、すっきりと晴れあがるのは期待できないようだが、その分真夏の強烈な日差しは避けられそうだ。

シラビソの向うに尾瀬燧岳が見える
至仏岳も近い

 登山道の周囲は、ブナにダケカンバ、そしてオオシラビソが混生している。登るにつれてオオシラビソが優占してきた。伊南川の深い谷を隔(へだ)てて、標高2059mの帝釈山(たいしゃくさん)がそのなだらかな頂を見せているが、双耳峰(そうじほう)の燧岳は雲に隠れたままだ。道は依然として急なことに変わりはないが、それでもジグザグを切ったり、緩い箇所が出てきたりで、登りも少し楽になってきた。水場からさらに1時間も登っただろうか、尾根は広く緩やかになり、右手には会津駒ヶ岳のなだらかな山頂が望まれた。登山道も湿原の中を伸びる木道(もくどう)に変わり、やっと風が感じられるようになった。

会津駒:
山小屋が見えてくれば
山頂はもう一息!

 ついに、山頂部の一角にたどりついたのだ。深い樹林帯の中、急勾配の尾根をひたすら登り続けた末に、まったく異なった世界に入り込んだのだ。見渡す限りなだらかな山肌を、湿原と矮小化したオオシラビソの林とが覆っている。振り返れば、尾瀬ヶ原を囲む燧岳と至仏山(しぶつさん)、そして明日登ろうとする平ヶ岳(ひらがだけ)が、小さな雪渓が残る青白色の山体を見せている。ひときわ大きなドームが誇らしげなのは、昨年登った奥白根山。

コバイケイソウの花がちょうど満開!!

 足元の湿原には、白い綿飴をちぎってつけたようなワタスゲや、花期を終え種子が風車(かざぐるま)のようなチングルマ、そして今を盛りと咲くワインカラーのハクサンコザクラが美しい。私たちは進んでは止まり、止まっては進みしながら、四囲の山々を、湿原を、駒ヶ岳を眺めるのにいそがしかった。やがて、駒ノ小屋で一休みしてから、すぐそこに見える駒ヶ岳への木道をゆっくりゆっくりと歩いて行った。空は高曇りのまま。頬をなでる風は汗を運んでくれる。

山頂は木道に囲まれて
地元に住むガイド夫妻

 

ここは「山上の楽園」に違いない。
1年のうち、7〜10月の4ヶ月間だけ開園する庭園。
しかし、いったん風雨を受ければ、人々から温かさを奪い取り、血の気を失わせる。
そして、11月ともなれば全ての生物(いきもの)は眠りに入り、光輝く白い季節は果てしもなく続いていく。
それを思うと、今は確かに「山上の楽園」に違いない。

 駒ヶ岳から中門岳へと続く
湿原の散策に向かった友を待つ間、
私たちは冷えたビールで乾杯をし、
ゆっくりと昼食をとり、昼寝を楽しんだ。
緑濃い穏やかな山々に囲まれ、
さわやかな風になでられ、
暖かい日差しを受けて、ゆっくりと時を楽しんだ。

中門岳まで道は延々と続く。
あの雪渓は多分、我々に
「ここでビールを飲みなさい」と
言っているようだ!!
昼食

私たちは、暑くあわただしい下界から、重いザックを背負い、汗をたっぷりと流した末に、この楽園にたどりついた。
そして一時、この楽園で身も心も解き放って、様々な疲れ癒(いや)し、軽くなって、やがて日常へ、生活の場へと戻って行く。
しかし、天上へと昇る中途、俗世の苦を忘れ、この楽園で花を愛(め)で、風を楽しみ、軽やかに昇天する魂もあるのだろう。
天上に楽園があるのだから、天上に最も近いこの地にも天上のような楽園がある。
いや、ここに楽園があるのだから、天上にはもっと素晴らしい楽園があるはずだ。

昔から、ここ駒ヶ岳の湿原にたどりついた人たちは、そんな風に考えたのではないだろうか。

  何故って?

 私もそう思ったから。

 

 こうして山頂直下で1時間半も時を過ごした私たちは、戻ってきた友とともに、湿原ではゆっくりと、そして急な尾根はあわただしく下り、昼下がりの暑い檜枝岐村へと戻った。 

 そして、私の山日記には次の記録が残った。

 

 奥会津の山、「会津駒ヶ岳」に分け入る。

 終日、薄曇にして風は弱く、真夏の日差しも弱かった。

 深い樹林帯の中、急勾配の坂を登り詰めると、湿原とおだやかな尾根が続く駒ヶ岳の「楽園」が待っていた。

 緑濃い穏やかな山々に囲まれ、さわやかな風になでられ、暖かい日差しを受けて、ゆっくりと時が過ぎ行くのを楽しんだ。

 越後の山へと続く山旅の一日目は、心豊かな山だった。

 最後はやはり温泉が最高!!

 5:30 登山口(1120m)発

 8:30 駒ノ小屋

 9:30 山頂 (2133m)着

      (昼食等)

11:00 山頂発

13:50 登山口着

登り    4時間

昼食等   1時間30分

下り    2時間50分

計     8時間20分

高度差   1013m

 山頂から遠く富士山が望まれたのを付記しておく。
                         

                                  

      『原生的な山、平ヶ岳』

平ヶ岳山頂:
平ヶ岳の名の通り
山頂は湿原の中にある林の中

 「おい、おい、「原生的」ってなんだい?あまり聞いたことないぜ。」

 「山が生きているっていうのかな。人の気配が希薄な山のことさ。」

 「フ-ン。じゃあ、学生時代に登った北海道の山々かい?」

 「まあね。君も平ヶ岳を登った時に感じただろう、「原生さ」を!」

 会津駒ヶ岳を下りてから、桧枝岐の温泉で汗を流した私たちは、細く曲がりくねった山道をたどり、新潟県側の銀山平まで移動した。尾瀬ヶ原から流れ下る只見川を堰き止めた奥只見ダムと、何本もの大きな谷を沈ませている銀山湖。その銀山湖の一番西側に流れ込む北ノ又川の近くに銀山平があるものだから、私たちの車は、湖の岸沿いに屈曲した山道を、ハンドルを大きく左右に切りながら、ゆっくりと進んで行くほかなかった。睡魔(すいま)が襲ってくると、にぎやかなおしゃべりで追い返す。

お世話になったメインログハウス
食事はここで・・・

 今日と明日の2日間は、ログハウス1軒を借りきったものだから、みんなが学生時代に戻る楽しさを期待していた。荷物を運び入れ、温泉に出かけ、ビールを飲み、一段落すると、今度は夕食をとるべく、大きなログハウスの母屋に向かった。床はフロア−だが座卓式の食堂に入ると、50才台後半に見える甲高い声のリーダーに率いられた、隣県から来たという8人のグループがにぎやかに食事をしていた。いや、にぎやかなのはリーダーと3人の男性だけで、隣のテーブルに陣取った女性たち4名はクールだ。私たちが入場したものだから、リーダーの声はさらに高まって、矢継ぎ早に話しかけてきた。「ほら、また始まったわ。テンションが高いんだから。今日はどこまで行くことやら。」、とぼやく女性の声がすぐ側(そば)から聞こえてくる。

毎晩豪華な食事が並ぶ・・・つい宴会になってしまう。

 やがて、宿の女主人が明日の「平ヶ岳ツアー」、簡単に言えばマイクロバスの送迎予定を説明しはじめた。「明朝は3時半にマイクロバスが迎えに来て、4時には出発します。中の岐(なかのまた)林道を登って、登山口には5時半に着きます。帰りは12時半に登山口を出発し、午後2時に戻ってきます。山仕事は朝の早い涼しいうちにというのが、この地方の仕来たりというかやり方です。雷雨など山の事故は午後に多くおきるからです。」

 えらく早い出発時間だが説得力がある。説明が終わると、テンションの高いリーダーはすぐに、「4時まで待たないで、3時半に出ましょう。いいですね。」と相槌(あいづち)を求めてきた。「いいですよ。そうしましょう。」と私たちの先輩。明日の予定が決まると、宴会はまた盛り上がり、甲高いリーダーの声は、頭のてっぺん、薄い髪の中から出てくるようになった。

 依然として冷ややかな女性たちの視線を、気に止めもしないリーダーは勝手にどんどんと盛り上がって行く。小一時間もたっただろうか、女性たちはかなり興奮気味のリーダーを数回たしなめると、「明日(あした)が早いんだから。」と男たちを連れ、自分たちのログハウスへと引き揚げて行った。そこで、私たちも腰を上げた。ハイテンション組に負けずに起きなければならない。

 しかし、会津駒ヶ岳を登った満足感が戻ってきたのか、アルコール類が豊富だったせいか、ログハウスに帰ってから私たちの宴会も盛り上がってきた。それでも9時が過ぎると、一人一人と寝床に去って行くが、「うわばみ」と「ざる」たちは、すでに時の観念をなくしていた。一度、寝床に入った「たしなめ役」が起きてきては、二度三度注意をするが、彼らは素直に「はーい」、「うん」、「もう寝るよ」と返事をする。しかし、その素直さはすぐに忘れ去られ、「たしなめ役」が寝てしまうと、宴は延々と夜が更けるまで続いたようだった。

 さすがに、翌朝はみんな早かった。まだ真っ暗な2時半に携帯電話の目覚ましアラームが鳴っている。窓の外を見れば、ハイテンション組はハウスの外に出て、なにか後片付けをしていた。お互いに負けるなとばかり、3時過ぎには準備を終え、ログハウスの中や前で待っていると、古びたマイクロバスがヘッドライトを輝かせてやってきた。(なにやら、アニメ「隣のトトロ」に出てくる「猫バス」みたい!夢の世界へ連れて行ってくれるのか?))私たちはごつい体の運転手と朝のあいさつを交わすと、すぐにバスに乗り込んだ。ハイテンション組は林道の入り口まで自分たちの車を持って行くので、リーダーの他に男性1名と女性4名が乗り込んできた。今朝もリーダーは元気いっぱい。まず仲間に、そして私たちに、運転手にと矢継ぎ早に話しかける。「朝からハイテンションなんだから。」とは、昨夜もぼやいていた女性の言葉。まだ真っ暗な闇の中で、大きく手を振る女主人に見送られて、私たちの「猫バス」は、ジーゼルエンジンの音もやかましく疾走し始めた。きのう、私たちがてこずった湖岸沿いにくねくねと曲がる道を、リズム良くスラロームしながら走りぬける。

 銀山湖の奥にある中の岐林道のゲートを開いて奥に入る。空は少しずつ白んできた。1車線の林道はお手のもの。運ちゃんは、どんどん砂利道を飛ばす。しかし、左手はいきなり沢に落ち込む崖、右手は覆いかぶさる岩壁。思わず手すりをつかむ力が強くなる。まだ眠いのだからと、目をつむって運ばれて行くことにした。

 終点の駐車場には、予定どおり5時に着いた。背を伸ばした運ちゃんが、たぶん民宿の旦那さんなのだろうが、山を見上げて自信たっぷりにこう言った。「ここから尾根の上まで2時間あれば行けます。バスの出発は12時半。それまでここで待機しています。」と。林道の奥の奥まで来たのだから、登りはずーっと一本調子でキツイに違いない。運ちゃんの「2時間あれば」という言葉に送られ、心地よい早朝の冷気を楽しみながら、私たち7人は登山口を出発した。

すぐに沢を徒渉し、岩に遭難者を慰霊するレリーフが埋め込まれているのを見る。1988年夏のアクシデントだ。登山道はすぐに急な斜面を登り始めた。対岸の上方に剱ガ倉山へと突き上げる沢に残る白い残雪を見上げ、下方の駐車場にはマイクロバスが5台に増えているのを認める。誰かが、「旦那さんたち、12時半まで退屈だろうな。」とつぶやく。すると、「5人もいれば、マージャンできるじゃないか。」の声。あとは、言葉少なく、ハーハ−、ゼーゼーと荒くなる息が聞こえるだけになった。

 登り始めて1時間たっても6時、2時間たってもまだ7時だから、大気は依然として透明で涼しく、私たちの味方をしてくれる。また対岸を見渡せる尾根に出た。ここにも、遭難者を慰霊するレリーフがあった。この尾根で朝食をとる。その後は、ひたすらきつい登りに耐え、登っている尾根の北側の沢が眺められるようになると、傾斜は少し緩やかになった。そのまま尾根上を登り詰める。登山口から2時間半を経過して、私たちは低い潅木の向うに高山植物のお花畠を見出した。古びてはいるが、二本の木道が敷かれている。そして、その木道を20歩も歩いただろうか、平ヶ岳の、それこそ変哲もない平たい山頂部が真正面に眺められた。オオシラビソの黒い林を身にまといながら、悠然としている平たい尾根状の山。ついに、私たちが今回の山旅で一番の目的としてきた、平ヶ岳の核心部に入りこんだのだった。ザックを下し、水を飲み、少し休む。そしてザックを置いたまま、平ヶ岳のシンボル、玉子石を見に出かけた。数分の近さだ。

玉子石と湿原の美しさは
何度見ても見飽きない。

 今、私の手元に引き伸ばした1枚の写真がある。玉子石とその背後の小湿原の景観。夏の山旅から戻ってから、何遍も見ているのだが見るたびに素晴らしい、とても魅力的だと思う。平ヶ岳の魅力はこの景観に象徴されていると思う。まず手前には、矮小化したオオシラビソやシャクナゲの潅木(かんぼく)に囲まれた奇岩「玉子石」がその全容をあらわしている。玉子石の背後の下方には、蒼空(そうくう)を青く写す池塘(ちとう)を散在させた小湿原が広がっている。そして、湿原の向うには剱ガ倉山へと続く緑豊かな尾根がある。なかでも小湿原はことさらに美しい。誰も入ることのない、太古からの原生が保たれている。そこには、厳しい北国(ほっこく)の気象に支配された大自然の中で、クライマックス(極相)に達した高層湿原の生態系が息づいている。確かに、潅木や笹をかき分け、高山植物を踏んで行けば、この美しい湿原の中に立つことはできるが、誰もがそうはしたくない、できないだろう。人の気配を与えてはいけない美しさを感じたのは、私、いや私たちだけだっただろうか。

 1枚の写真からでも、そう感じさせるほどの魅力、それは大自然の「原生さ」にほかならない。

 昔のアルバムを探し出し、1枚1枚見ていくと思い出してきた。今から30年以上も昔、学生時代に登った北海道の山々だ。確かに、そのころの山には人の気配が希薄だった。強く印象に残っているいくつかの山をあげてみよう。

 まず、一年生の秋に連れて行ってもらった、日高山脈4泊5日の山行(さんこう)。2日目に山奥の造林飯場に泊めてもらった後、沢登りをし、ハイマツの太い根が歩きにくい道を登って、幌尻(ポロシリ)岳の北カールにテントを張った。翌日は、幌尻岳と戸蔦別(トッタベツ)岳を登った後、無人の山小屋に泊まる。そうして、山から下りてくるまでの間、ただの一人にも会わなかったことを今でも覚えている。

 二年生の夏に6泊7日をかけた石狩連峰から大雪山系への縦走。ここでも、十勝三俣から音更(おとふけ)山・石狩岳を登り、沼の原の広い湿原を通り、一面にお花畠が広がる五色ヶ原の中ほどに来るまで、まる3日間というもの誰にもすれ違わなかった。そして、大雪山の奥、お花畠と雪渓(せっけい)に囲まれたヒサゴ沼に2泊し、夜明けのトムラウシ山でブロッケン現象に驚いた。やがて、どこまでもなだらかに続く高根ヶ原の尾根をまる一日かけて北へ歩き、やっと白雲(はくうん)岳に近づくと、整備された広い登山道があらわれた。何人もの登山者が歩いている。「原生の山」から「登山者の山」へ来たのだ。そして、まだはるか南を北上する台風の影響を受け、白雲岳には夕方から強い雨が降り始めた。それまで、誰もいない山の中に気ままにテントを張り、大声を出して笑っていた私たちは、満員になった白雲岳小屋で、周囲に気を使いながら、そそくさと食事をすませてから寝袋に入った。

 もう一つ、北海道で一番美しい沢だという大雪山のクワウンナイ沢を、二年続けて登ったことがある。テントを担ぎ、沢の中と上とで2泊したのだが、やはり2回とも沢には私たちしかいなかった。いや、正確に言うと、尾根のどこかから見ていただろうヒグマと、沢の中のオショロコマ(イワナの1種)が私たちと共にいた。

 今思うと、北海道の奥地の山々は大自然の動物や植物に満ちて、登山者を打ち負かすような迫力を持っていた。だから、あの時代の山登り、特に奥地の山々は決して安全ではなかった。若い私たちはヒグマの脅威に、天候の急変に常に緊張しながら、細い登山道を登って行ったのだった。

       平が岳は向うの平らな山
右奥中ノ岳
会津駒からの遠望

 さて、話を平ヶ岳にもどそう。

 玉子石への散策から戻った私たちは、正面に大きく横たわる平ヶ岳に向かい、木道をゆっくりと歩いて行った。一度お花畠が広がる尾根筋に上がってしまうと、登山道の傾斜は実に平坦になった。潅木を抜けると三叉路の分岐があり、昨日のうちに鷹ノ巣口から登って来た人たちのテントが幾張りか残っていた。彼らは、「正規の登山道」である標高840mの鷹ノ巣口から6時間もかけて登ってきたのだろう。そして、「原生の山」平ヶ岳の夕暮れ、満天の星空、朝焼けを満喫して、今ごろは頂で憩っているのだろう。彼らの登山ルートが大手門から入る「正規」ルートならば、私たち「平ヶ岳ツアー」の登山道は「搦(から)め手」ルートとでもいうのだろうか。確かに、今日は1230mから登り始めたのだから、標高差にして実に390mも得をしている。

平らな木道になれば
山頂はもうすぐ

 山頂へ向かう登山道は三叉路を右に折れ、水場になっている小さな沢に沿って平ヶ岳沢まで下り、沢を渡ると、やがて平ヶ岳の山頂部を大きく左に回りこみながら、ゆっくりと登り始めた。大気は水蒸気をたっぷり吸いこんで靄(もや)っているが、上空には薄い青空が心地よく広がり始めた。しかし、周囲の山々はなかなかその姿をあらわしてくれない。

「この方向には尾瀬の至仏(しぶつ)山が大きく見えるはずなのだが。」

「武尊(ほたか)山だって、すぐ近くだよ。」

「残念!残念!」

 ゆっくり、ゆっくり登るものだから、おしゃべりはつきない。それでも、山頂に近づいたようだ。木道の先に休み場が2箇所あるが、すでにお昼(?)を食べてくつろぐ2パーテイが占拠していた。私たちは、休み場の空いている片隅にザックを置き、潅木と化したオオシラビソの林の中にある山頂を示す標柱を囲んで、記念写真いや証拠写真をとった。まだ8時40分だ。山頂を明示しているこの標柱がなければ、どこで撮影しているかわからない。それほど魅力のない頂(いただき)に会うのも、八幡平(はちまんたい)以来だ。昼食を終えた1パーテイが立ち去った後、私たちはログハウスの女主人が山登り用につくってくれたお弁当を広げた。そして、コッヘルに、会津駒ヶ岳を越えてきた、つまり2山を登り終えた大きな缶詰の味噌汁を温め、2日間担ぎ上げてくれた先輩に感謝しながら、ありがたくいただいた。

平が岳の名のとおり
どこまでも平らな山頂

 木道は、山頂の側にあるこの休み場を通り抜けて、ブッシュの向うに続いている。ブッシュを抜け、平坦な木道をたどると、そこにはさらに平らなお花畠が広がっていた。標柱のある山頂とほとんど高さが変らないこのお花畠にたたずむと、「平ヶ岳」という山名がつくづく実感される。そして、目を上げると、重なり合った雲の上に中ノ岳の小さな尖(とん)がり状の頂がやっと望まれた。

 お花畠が広がる平らな平らな山頂部に別れを告げて、9時35分に私たちはゆっくりと下りはじめた。平ヶ岳沢を渡る頃になると、疲れきった表情をした数名の登山者とすれ違う。彼らは今朝早くに「正規の登山道」である鷹ノ巣口を出て、今山頂部にたどりついたのに違いない。「こんにちは」、「ごくろうさん」と声をかけながらも、苦労の多いルートを選んだ彼らがうらやましかった。体力が衰え、個人差がある私たちでは、全員でそのルートを登ることはできなかったからだ。鷹ノ巣口へと下りる道を右に見て、三叉路を左に折れた私たちは、やがて美しいお花畠や平坦な山頂に別れを告げて、急な尾根筋をころがるように下りて行った。

 登山口着12時15分。登り3時間35分、下り2時間40分の山登りだった。登山口で待っていたマイクロバスにハイテンション組と乗り込む。昼の陽光の中では、私たちの「猫バス」もただの古びたマイクロバスにすぎない。平ヶ岳の夢からさめた私たちが乗るバスは、砂ぼこりをあげて林道を下り、曲がりくねった湖岸の道を走り、ログハウスには14時に着いた。おりしも、お祭りでにぎやかな銀山平にも真夏の暑さがやってきていた時刻だった。

 

 

 そして、私の山日記には次の記録が残った。

 原始の自然が残る「平ヶ岳」に登る。

 風はなく、日差しも穏やかで、恵まれた一日だった。

 銀山平に生きる人たちの時間に合わせ、早朝3時半から午後2時まで行動し、

8時40分に山頂に立った。

 奇岩「玉子石」のほかには、急峻な尾根に守られた平坦な山頂とお花畠が広がる山だったが、奥深く、山容が平らだからこそ、注目されずに、開発されずに残されてきたのだろう。

 登る人も少なく、私たちには大自然の魅力を満喫できた山だった。       陽

5:05 登山口(1230m)発

 7:43 玉子石分岐

 8:40 山頂 (2141m)着

      (昼食等)

 9:35 山頂発

12:15 登山口着

登り    3時間35分

昼食等      55分

下り    2時間40分

計     7時間10分

高度差    911m   

                                 

メンバーチェンジ魚沼駒

東北シリーズ3日目

3日間登りつづけることが出来るかそうそう不安だったが・・・

「今回はもう満足したからいいや」と3人百草の池で別れる。
私も、付き合おうとも思ったが
3日目に遅れて加わった1名の「これで帰ったら私は一座も登らなかったことになる」との言葉に奮い立たされ山頂を目指す。

 

山頂にはいろいろなお供え物が・・・

山頂から下り小屋の前にて昼食

前の日に買った味噌汁の缶詰が具が多くて美味しい。ただ難点は重いこと。

 

下に下りると途中断念の3人は
それなりに楽しんだようで
着替えも済ませすっきりした顔で待っていた。

小屋の前から山頂(右側)を望む。

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