八甲田・岩木山
H14.9

「追憶の山、八甲田山」

 

 もう小正月も過ぎてしまった。グラスを廻しながら、白い風が吹き抜けていく様(さま)を窓の外に眺めて思う。

「八甲田に遊んだ友は何をしているのだろうか」、と。

 八甲田の仲間たち。それは、北から南から集(つど)い来たりて、温泉と地酒を心ゆくまでともに楽しんだ仲間たちだった。

 

 八甲田山は、連なる峰々と、それらを包みこんでいるアオモリトドマツの深い森とから成る地域の総称で、一つの頂を指しているわけではないという。「甲」と称される円錐形の頂と、大小さまざまな高層湿原の「田」。これらが、ゆるやかな起伏の山塊(さんかい)の中で、あちらに一つ、こちらに一つと点在している。そして、山塊を二分して国道が青森市から十和田湖に抜けている。国道の北側の山々は北八甲田、南側は南八甲田と呼ばれてはいるが、連続した一つの山塊である。一番高い北八甲田の大岳でも標高1584mにすぎないが、本州最北端に位置しているため気候は寒冷だ。そして、津軽海峡を真下に、右に太平洋、左に日本海を望むことができるだけに、冬期は豪雪地帯となる。だから、思いがけないほどの低さまで高山植物帯が下りている。東北の中でも、高山植物や高層湿原に恵まれた山なのだという。 

 東北の山々を南から登り始めた私たちが、本州の最北端に残された二つの山、つまり八甲田山と岩木山に出かけようと思ったのは、前年の10月に岩手山の頂から北望した時だった。ポコポコといくつもの頂を突き出している高原状の八甲田山。長くなだらかな裾野を雲海の中に伸ばしながらも、肩を怒らせた岩木山。そして、山頂部には三つの峰があるが、真中の峰が鋭く屹立(きつりつ)して、均整がとれているものだから、釈迦三尊像にもなぞられる、津軽地方の信仰の山、岩木山。その時から、翌年に私たちが登る山は決まっていた。

 

 さて、いつものごとく、九州から、関東から、そして東北から盛岡駅に集まってきた仲間たちは7人。もう1人、東京の友は婚礼を祝った足で夜行バスに乗り、翌朝集合することになっていたから、都合8人である。7人は、秋田の友の新車に4人、レンタカーに3人が分乗し、東北自動車道を北上した。雲は低い。岩手山はその大きな裾野だけを見せ、私たちの期待をかなえてはくれなかった。秋田県に入り、山間(やまあい)の細い谷を伝い、やがて小坂町で自動車道を下りた。紅葉にはしばらく間のある、ゆるやかな緑の丘陵を登って行くと、発荷(はっか)峠はすぐだった。発荷峠。それは、南側から十和田湖を訪れる人たちに、四季それぞれが素晴らしい湖の全貌(ぜんぼう)を見せてくれる思い出に残る峠である。私たちもしばし展望台に立ち、広大な十和田湖と、湖を囲んでいるなだらかな外輪山の景観を楽しんだ。そして、左右に大きくハンドルを切りながら峠を下りて行った。道路の左右には広葉樹が多い。新緑と紅葉の季節には、全くもって楽しいドライブが期待できるだろう。

発荷峠
今回はこのメンバー

 湖畔に下りたったところが和井内(わいない)の地である。昔の地名は生出(おいで)だが、十和田湖にヒメマスを移殖した和井内貞行翁の功績を記念して今の地名になったと聞く。そして、峠からの道が湖畔に下り切ったT字路の左側に、以前は青森・秋田両県が共同で管理していたヒメマスふ化場がある。現在は十和田湖漁協が運営しているという。なぜ、両県共同のふ化場かと言えば、十和田湖が両県の県境になっているからで、ここ和井内の周辺が秋田県、湖畔で一番にぎわう休屋(やすみや)から北岸にかけての広い範囲が青森県になっている。しかし、湖岸に立てば、十和田湖は十和田湖。「青森県の」、「秋田県の」などとは、県外から訪れた誰もが知らないし、関心を示さないだろう。私たちが訪れた日の湖面は蒼く、どこまでも滑らかだった。

十和田湖休み屋にて

 和井内から休屋までは、湖岸の道を走る。まだ青い葉をつけた広葉樹の隙間に湖面は光っていた。やがて、休屋に入る。連休だけに駐車場は混んでいた。私たちは湖に突き出した中山半島の渚(なぎさ)に下りて散策し始めた。午後も3時を過ぎると、秋の日は傾きはじめ、風がひんやりとして冷たい。渚を半島の先へ歩くと、高村光太郎作の乙女像が見えてくるはずだ。透明度が高く、岸深(きしぶか)の湖は、渚からすぐ先の湖底が青く沈んで見えなくなるが、湖面は傾いてきた日差しに対岸まで輝いていた。私は何気なく靴を湖水につけて、光輝く湖面に見入った。すると、30年も前の光景が浮かんできた。そして、思い出した。

 

 それは、正確には33年も前の20才の頃。初夏だったろうか、私たちは十和田湖へ遊びに来ていた。休屋のユースホステルに着いて受け付けを済ませた後、観光船乗場から乙女の像まで湖岸を散策していた。その時も、湖水は蒼(あお)く透明で、西日を受け輝いていた。新緑の候とはいえ、人影が少ない湖岸はひっそりとしている。木々がささやく中、二人の言葉は少なかった。心の奥に溶け去ってしまったはずの光景を一つ思い出すと、次の光景が甦(よみがえ)ってくる。この時、私たちは東側の宇樽部(うたるべ)でバスを下り、休屋まで歩いてきたのだった。当時でも休屋は十和田湖で一番の観光地だったのだが、私は静かな宇樽部でゆっくりと時を過ごし、御倉(みくら)半島と中山半島の基部の峠を越えて休屋に入るプランを立てた。確かに、宇樽部には静かな湖岸があった。しかし、他には何もなかった。しばらくの間、二人は砂浜の大きな流木に腰をおろして話し合っていたが、静けさの中、湖面がだだっぴろく見えてきたので腰をあげた。初夏の日差しも暑くなってきた。何もない宇樽部では、もちろんコーヒーを飲むこともできなかった。家々はひっそりとして、農作業に出払っているのか人影もない。私たちは汗ばむような日差しの中を歩き始めた。林に入ると涼しさに包まれて、新緑に染まったゆるやかな登りが続く。展望台から澄んだ藍色の湖面に見とれる。追い越して行く車が冷やかしに鳴らすクラクションを聞き流しながら歩き続け、少し疲れを感じ始めた頃に休屋に入った。そして、ユースホステルの受け付けを済ませて一休みした後、湖岸に出て、夕暮れが迫るまで二人は黙って湖面を眺めていたのだった。

 さて、私たちの車は休屋から宇樽部を過ぎ、湖から奥入瀬(おいらせ)川の渓谷(けいこく)に下りて行った。すでに日は外輪山の彼方に隠れ始めて、奥入瀬川に黄昏(たそがれ)が訪れてきた。奥入瀬川の渓谷は「日本を代表する渓流美」として、明治の文豪、大町桂月氏が激賞して止まないところだ。私はこれまでに三度(みたび)訪れたことを思い出した。以前は、この渓流美の拠って来(きた)る由縁を考えることもなかったが、常日頃、川や魚に関係していると、この奥入瀬川の不思議さが気になってしまった。まず、川岸まで樹木や草が密生している点。自然の川にしては流れが直線的で大きな蛇行がほとんどなく、水深が浅く流れの速い瀬ばかりである点。つまりは、イワナやヤマメの潜(ひそ)むような大きな淵がほとんどない。何故だろうか?答はすぐに出てきた。大きな十和田湖が水源になっているだけに、奥入瀬川の流量は安定していて、洪水による河畔(かはん)植生の破壊がおこらないのだ。そして火山活動によって形づくられた岩盤や岩の間を、追入瀬川は滑るように流れているのだ。美しい渓流美。それは、私がつきあっている魚たちには住みにくい環境だった。

 そんなことを考えているうちに夕闇は深まってきた。やがて、車は奥入瀬川と別れ、蔦温泉を過ぎ、ゆるやかな勾配を登り、八甲田大岳の麓にある千人風呂で名高い酸ヶ湯(すかゆ)温泉へ着いた。

酸ヵ湯泊
食事がとても豪華!!

今日は酸ヶ湯温泉、明日は岩木山の嶽(だけ)温泉に泊まる。今回の山旅は温泉が豪華だ。酸ヶ湯温泉は湯治(とうじ)場として有名だが、通常の旅行客用の旅館部と湯治客用の湯治部の二本立てになっている。もちろん湯治部の宿泊料金は安い。旅館のパンフレットを見よう。例えば、夫婦二人連れで湯治に来て、自炊するとしよう。6畳間であれば1日3千円だから、1週間いたとしても2万1千円にしかならない。これで、寝具類、暖房、テレビ、冷蔵庫の経費は含まれている。予約を申し込んだ時にはすでに混んでいたので、私たちは湯治部の部屋で旅館部の食事付きということになった。これも、気兼ねしなくていい部屋でくつろぎ、豪華な晩餐を楽しんで、少し料金が安いのだから、登山者にとってはいうまでもないことだ。千人風呂に入り、ゆっくりと地酒を楽しみ、にぎやかにおしゃべりをしているうちに、旅の目的はずいぶんと満たされてきた。そして、今回の山旅では雲に包まれた山よりも、温泉と地酒が終始リードすることになった。

千人風呂を持つ昔からの湯治場

 翌朝は穏やかな曇空。私たちの計画は、田茂萢(たもやち)岳へ登るロープウエイの駅で、東京の友と合流し、赤倉岳、井戸岳そして八甲田大岳を登った後、条件が整えば高田大岳を越えて谷地温泉へ下り、バスで酸ヶ湯へ戻るものだった。「条件が整えば」?それは、時間の余裕と、元気が残っていることと、天気が持てばということなのだが……。

赤倉岳に到着

田茂萢岳まで登ると、赤倉岳、井戸岳そして大岳が一望できた。しかし、一番高い大岳には雲がかかっていた。既に湿原は黄褐色に枯れているが、木々の紅葉が山肌を下りていくのはこれからだ。大気は冷え切っていて、登りで少し汗ばんでも、足を止めるとすぐにさめてしまう。赤倉岳東面の爆裂火口壁は昇ってくる濃い霧で隠されている。井戸岳へ続く稜線を歩くうちに雲が次第に下りてきて、視界が遮(さえぎ)られてきた。

八甲田大岳

井戸岳の火口壁をたどりながら、大岳との鞍部に下り始めると、登山道の脇に木の柵が並んでいる。見たことがない。始めはよくわからなかったが、そのうちに裸地化した山肌を復元しているのだということに気がついた。登山者が踏み荒らした裸地を立ち入り禁止にするとともに、強風から植物を守るための幾重もの柵だったのだ。そして、この後も自然破壊と復元の努力について、見ることになった。

風が強くなってきた中を井戸岳と大岳の鞍部に下り着くと、大岳ヒュッテの前で10人近くの高校生が先生?に指示されながら土を掘り起こしている。よく見ると、ずいぶん以前に埋められた空き缶や空き瓶を回収しているところだった。現在は昔と比較にならない大勢の人々が登るだけに、持ち帰れるものは全て持ち帰るのがルールになったが、ごく限られた人々しか登らなかった時代には、ゴミはよく捨てたし、不要になったものは埋めたものだ。しかし、それが野生動物に人間の食料への興味を抱かせ、金属が腐食する過程で周囲の植生を損なうことになる。この高校生たちは、過去のマイナスを除去することで、昔のマナーの悪さを学習し、自分たちのモラルを高めることだろう。30年も前から山登りを楽しんでいる者としては、少し気恥ずかしい思いを感じる。私たちは休憩もせずに大岳に登り始めた。

大岳は八甲田山の最高峰だから展望はいいはずだった。しかし、大岳ヒュッテからすぐに霧がかかる中を、登り始めてから20分程度で平らな山頂に着いた。さすがに登山者が多く、山頂にめぐらされた柵に沿って思い思いに座りこんで休んでいる。雲がなければ、どちらを向いても紅葉に染まった「甲」と「田」の眺望が楽しめたはずだ。私たちは、濃い霧の中で記念写真を数枚とり、携行食をほおばって、すぐ下りることにした。大岳ヒュッテまで戻れば、上毛無岱(かみけなしたい)、下毛無岱という、八甲田山きっての広大な高層湿原を散策できるのだが、高田大岳を視野に入れていた私たちは、そのまま仙人岱(せんにんたい)へ向って下り始めた。少し下りて行くと、また見たことのないものに出会う。今度は、石を詰め込んだ四角い蛇篭(じゃかご)が道の両側に平行して設置されている。2段積みの箇所もあるから、高さは60cm以上もあろうか。まるで、登山者を強風から守っているようでもあり、登山者を道の外へ出さないためのようでもある。瓦礫地で迷わないようにしているのだろうか?

蛇篭が終わると、傾斜は緩くなり、小沢に沿って下りるうちに、裸地が広がる平坦地に出た。左手に木造の高い山小屋が見える。標識には「仙人岱(せんにんたい)」とある。裸地の「仙人岱」!説明板には、登山者が踏み荒らしたため、小規模だが美しい高層湿原がすっかり破壊されて裸地になってしまったという。そして今は、元の高層湿原に戻すために、登山者の立ち入りを禁止するロープが張ってあり、木道が整備されていた。その「仙人岱」の中央部に木枠で囲まれた湧き水があり、その周囲に休憩場が用意されていた。想像してみると、以前は湿原の美しい花の中に湧いている清水だったのが、今は裸地の中を木枠で保護されているとは無残なことだ。高山の美しい自然は壊れやすいのだから、それを楽しもうとする者たちは細心の注意を払わなければならないし、先ほどの高校生たちのように身を持って自然保護を体験することも重要だと思う。最近になく、山の自然保護を考えさせてくれた八甲田山だった。

仙人岱にて
高田大岳まで行く予定だったのだが
ここで宴会が始まってしまい予定変更。

さて、その木枠で囲まれた湧き水では、昼食時だからコッヘルを沸かしている数組のパーテイが陣取っていた。私たちも、休憩場の隙間にザックを下し、コッヘルで湯を沸かしてはラーメンをつくり、インスタントお粥をつくり、紅茶を入れ、そしてアルコールで乾杯をした。思い思いに。ビールあり、ウイスキーあり、焼酎あり、ブランデーありだから、やはりアルコールで、としか書きようがない。ここでも、雲は低くたれ込めて、高田大岳方面の展望はきかない。左折して高田大岳を目指すべきか、日和(ひよ)って真直ぐに酸ヶ湯温泉へ下りてしまうか、皆が決めかねているうちに、左手の登山道から男子高校生のグループが元気よく下りてきた。早速、「どこから来たの?」と問えば、果たして谷地温泉から高田大岳を越えてきたという。そして、「道が悪い」と言う。この一言で、私たちの行き先は決まった。このまま下りよう。雲が低くて見晴らしはよくないし、谷地温泉への下りは泥濘(ぬかるみ)が多いとある。早く、温泉に入ってビールを飲もうよ。「水は低きに流れる、アルコールは早くに飲まれる。これは共通原理。」と口に出して言う者はさすがにいなかったが、だいたい皆の心の中はこんなものだった。なぜなら、決まるやいなやただちに出発し、途中で満足な休みもとらず、小1時間で酸ヶ湯温泉に到着したからだ。

地獄沢を渡る

私は、友の緊急用アルコール(ブランデー)の小瓶をずっとあずかり、味わいながら、雲の上を歩く軽さで下りて行った。もう緊急の事態はありえないから、中身も用がなくなった。なら、役立てないと、せっかく持ち上げた意味がなくなる。中途で瓶は空になり、私は仙人のような心持で、フワリ、フワリと足を進めた。青空も、展望も、花も、紅葉も、待ってはいなかった山だったが、私には十分なアルコールが許されて、仙人のような心持は格別だった。

 

次回は、同じメンバーで花々の咲き乱れる毛無岱を歩きたい。そして、八甲田山の展望を心ゆくまで楽しみたい。 

                           (陽)9月22日

ロープウエイ山頂駅   8:40

赤倉岳        10:00

大岳         10:50

仙人岱        12:00

(昼食休憩)     13:30

酸ヶ湯        14:30

計          5:50

 

「酔眼の津軽富士」

 人の心には、相克(そうこく)した感情、そして反論し合う思考が、生まれた時から入っているという。だから、思い悩み、果てしのない憂鬱(ゆううつ)に苛(さい)まれる。とまあ、青春時代のようにそこまで考え込まなくてもいいのだが、私の岩木山登山は酔眼と青眼(せいがん)で見た津軽富士だった。

 

 前日、雲に覆われた八甲田大岳から酸ヶ湯温泉まで、友の非常用ブランデーをちびりちびりと味わいながら下山したことが、生来(せいらい)の「酔っ払い」を呼び起こした。温泉に入って一汗流す暇(いとま)も惜しいように缶ビールで乾杯をし、また風呂上りに缶ビールを持ったまま土産物を物色していると、珍しいものが目にとまった。大岳の登山記念にと求めたバッジが、かの棟方志功氏が神鷹(しんよう)をデザインしたものだった。山を登るたびに記念バッジを求めていたが、たいていはピッケルや高山植物を配し、大量生産されたもので、芸術家がデザインしたものなどありもしなかった。喜んで「棟方志功バッジ」を買い求めた後、宿までアルコールがお預けされた気の毒な友が運転する2台に、酒飲みの6名が乗りこみ、岩木山の麓にある嶽温泉に向った。しかし、なぜか青森市へ近づいて行く。まだ日が高い。車内で、始めは気がねしながら飲んでいたビールも日本酒にかわり、酒瓶が車内を往復し始めた頃、車は小高い丘を登り、三内丸山遺跡に着いた。

嶽岳温泉への移動途中
三内丸山遺跡へ

 涼しすぎるまでの風が吹く縄文時代の遺跡ではさすがに酔いも醒め、高尚な会話が交わされる。大人4人が手をつなげるほど太い栗の大木4本を立てた物見櫓(ものみやぐら)に、太古の樹木の壮大さを実感し、幾層にも積み重なった貝塚の断面を眺めて、原始の海の豊かさに思いを馳(は)せた。白っぽい空の下で、草の冷たさ、そして静けさを、1時間以上も味わっただろうか。私たちの車は弘前市の郊外を通過して、嶽温泉へ向かったのだが、ひどい渋滞に巻き込まれてしまった。しかし、車内はまた盛り上って来た。車の心地よい微動に加え、窓の外は暮れてゆく。登った後の軽い疲労感。いずれも雰囲気を醸(かも)しだしていた。青森市から嶽温泉まで2時間以上もかかったのだろうか。やっと温泉宿へ着くと、私たちだけの夕食が一部屋に用意されていた。みんなが席に着き、記念の写真を撮って、いざ会食。宴会は始めからトップギアに入っていた。時は素早く進んでしまった。翌朝は、頭も胃袋も重い。なにしろ、八甲田の13時から飲み続けていたから、体中に万遍(まんべん)なくアルコールが浸み通っていた。今日も天気は悪い。雨は落ちてこないが、山は見えない。

                             

 津軽富士、つまり岩木山は、津軽平野に広がる林檎(りんご)畑の上に大きく聳(そび)えている。津軽地方で「お山」と呼ぶのは岩木山だけ。まだ学生の時だったが、弘前大学に進んでいた友人に誘われて、桜が満開の弘前城から岩木山を眺めたことがあった。林檎はまだ葉をつけていない。春霞の上に、真っ白な岩木山が肩を怒らせて、思いがけないほど近くに見えたことが、印象に残っている。しばらく、自転車を押して、岩木山を眺めながら林檎畑を歩いて行った。いつかは登りたいと思っていたが、その「お山」がすぐそこにある。

 ところで、山登りの計画を立てる時にはいくつかのコースを検討してみるのだが、今回ばかりはどうにもこうにもならなかった。津軽の「お山」は便利が良すぎるのだ。念願だった嶽温泉に泊まると、有料道路で八合目までドライブし、そして九合目までこんどはリフトで登って行ける。リフトの山頂駅からは一合分だけ、標高差160mほどを足で登ると山頂だ。かといって、有料道路やリフトを利用しなくても同じ場所を歩くことになるし、それほど根性があるわけではない。だから、宿に着いた時から、いや酸ヶ湯温泉に下り立った時から、私たちは岩木山の九合目まで登ったような気でいた。

嶽登山口
我々は当然ここからではなく
ロープウェー乗り場へ

 そんな心がけでは空も晴れるわけがない。二日酔の汗を出しながら、予定どおり山頂へ着いたまではよかったのだが、休んでいるうちに雨粒がポタポタと落ちてきた。ついに山の神の機嫌を損ねたらしい。視界はきかず、眺望もない。記念写真を撮って、乾杯をしただけで、山頂の時間は終わってしまった。晴れていれば、津軽平野の東に八甲田山と十和田湖の外輪山が、西を振り返ると穏やかな日本海が、そして北には北海道松前半島の大千軒岳が望めるはずだったのだが。どうも、今回の山旅は「はずだった」の連続になった。登りが登りなら、下りはゆっくり歩いてもすぐに着いてしまう。リフトで下りる頃には、空は小雨になっていた。

岩木山山頂にて

 あまりに早く終わってしまった山登りなので、時間がたっぷり残ってしまった。早く盛岡駅に着いてもしようがない。お腹も空いてきたから、弘前の街を見物しながら昼飯にしよう、と衆議一決。2台の車はすぐに弘前城までやってきて、お堀を回っているうちによさそうな小料理屋を探し出した。暖簾(のれん)をくぐれば、お寿司から丼もの、お蕎麦までなんでもござれ、のようだ。今日も地酒を味わいたい、飲みたい兵(つわもの)はさっそく冷酒をたのんで舌鼓を打ち、喉を鳴らし始めた。私?私は昨日で十二分。それに、まだ日が高いではないか。とは言うものの体調不良で、酒の香りも避けたいほどだ。「過ぎたるは及ばざるがごとし」、「羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」、まあ、なんと言われようと、そのとおりだから仕方がない。いや、ここまでくると何を言っても言い訳に聞こえよう。

降りてきてまた温泉
百沢温泉


しかし、弘前の街並みを、弘前城を眺めるたびに、学生時代に何回となく友と遊んだ情景が浮かび上がってきたのだ。はるか昔に忘れ去っていた。ゆっくりと湧きあがってくるこのなつかしい情感を、酒の酔いで損(そこ)ないたくはなかった。心の中で、ゆったりと味わっていたかった。明るく、楽しい、躍動感のある、それでいて、甘酸っぱい、やるせなさを。それは、私の足を止め、胸を叩き、まだ心の奥にあった青い扉をそっと開こうとする。私にもそんな思い出があったのだ、まだ感じる心が残っていたのだと驚かせながら。私は、車窓に流れ去る弘前の街を瞬きもせずにずっと眺めていた。青春にもどった眼で。

 だから、酔眼になるわけにはいかなかった。    (陽)

9月23日

リフト山頂駅      9:30

岩木山        10:05

(昼食休憩)     11:00

リフト山頂駅     11:20

登り           :35

昼食           :55

下り           :20

計          1:50