鳥海山
h16.5.5

 思ってもみなかった酒田での勤務。

 日々の印象を書き残そう。

 「 皐 月 」

 5月5日(曇)

 5連休となった今年のゴールデンウイークも終りを迎え、今日は13時00分山形発の高速バスで酒田へ戻って来た。1〜2日にかけて、福島県は三春町からやって来たK夫妻と鳥海山へ春スキーに出かけた後、あまりに疲れ果てたので夫妻の車に便乗して山形へ帰った。だから、今日はバス。

ターミナルでは、まだ十代の娘さんが同年令らしい彼氏をはずんだ声で見送っていた。車中には、二十才前後の若者が5、6人乗っている。途中の西川町のバスストップで、同じ年格好の若者を、両親と弟だろうか、家族3人で見送りに来ていた。バスのステップを上がる若者に母親が声をかける。若者はうなずいた。微笑みながら見送る家族。ここにもさわやかなそよ風があふれている。後でわかったのだが、彼らは鶴岡の高専や酒田の大学へ戻る学生たちだった。それも入学して間もないような。

 さて、1日の夕刻に酒田へ到着したK夫妻と中町へ夕食に出かけた時、日和(ひより)山にある日枝(ひえ)神社へお参りをした。ついで、港を見下ろす公園の展望台で、空を見上げ、日本海の波を遠望して、明日の日和を占ってみた。天候は今朝から順調に回復しているので、明日は期待できる。中町へ戻り、小料理屋に入る。意外にも若い女性客が多く、華やかなにぎやかさに包まれていた。庄内浜の旬の味、サクラマスの素焼きやイトヨの唐揚げ。そして孟宗竹がたくさん入った味噌粕風味のお汁を食べながら、地酒をいただいた。K夫妻と登った月山はいつも天候に恵まれなかったが、明日の鳥海山はいい日和になることを期待して眠る。

 果たして翌日(2日)は東風が強いものの、快晴の下に鳥海山は山頂から麓まで、その全容をくっきりとあらわしていた。尾根筋から溶けかけてはいるが、残雪はべったりとして豊富だ。雪が溶けた黒い広がりのいくつかが、「雪形(ゆきがた)」となって、「種蒔き爺さん」だの、「婆さん」だの、「馬」だのと、呼ばれている。なかでも「種蒔き爺さん」はくっきりとした姿を見せている庄内地方きっての「著名人」で、毎年農作業を急(せ)かして来た。これは、農作業の暦を「雪形」で判断する昔からの知恵であり、もうひとつ「生物暦」も使われてきた。こちらは、鳥や虫の動き、桜などの開花を平年と比較している。いずれも気温が積算された指標だ。

 20年、30年前には年中行事のようにして出かけていた鳥海山の春スキーも、住いを山形市に移してからは、転居した後の2、3年を除くと全く来ていなかった。最後に滑ったのはK氏と出かけたのだが、15年前なのかどうかもよくわからない。そう思うと、再び春スキーを滑れるのも酒田へ転勤になったおかげだ。K夫妻は、今年安達太良山で春スキーの爽快感に魅了されたというだけに、ずいぶんと勢いがある。

 唐の漢詩に、「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」という一章がある。麓から、山腹から、いくら見ても、残雪の多さ、残雪の斜面は20年前、30年前と変わっていない。だが、有料道路だった鳥海ブルーラインは無料の県道になり、7時までゲートが閉ざされていた。そして、国民宿舎の大平(おおだいら)山荘はさすがに古くなったが、その道路向いにある(昔山小屋だった)大平荘の建物を再び山小屋に使っているらしいのが目についた。

 スキーを担いで登り始めると、私たちの前後に続々と登るグループがいる。リフトなど人工施設のない鳥海山では、誰もが自分でスキーを担いで登らなくてはならないのだが、春スキーを楽しむ人たちは飛躍的に増えていた。20年前には、多くても、1日にせいぜい2、30人程しか見当たらなかったのに、今日は私たちが見るだけでも200人は超えている。1グループが登って行っても、あとから1グループ、また2グループと、途切れることなく続いている。これにはびっくりした。

 山は変っていないが、体力の衰えは身にこたえる。まして、以前使っていた山スキーと兼用靴(登山とスキーの)を捨ててしまったので、スキー靴をザックに押し込め、長いゲレンデスキーを担いでの登りは大変きつかった。それでも、50歩登って2分休むことを繰り返していると、大平口からの急な伝石坂を登り終えた。ここからは、御浜(おはま)の直下まで緩やかな斜面がまっすぐ続いているのが見える。少しはやる気を回復した。

 伝石坂では風が無かったけれど、今度は吹き降ろす東風を受けて登る。山肌は一面の残雪に覆われているが、尾根の上部には休むのにもってこいの草付きがいくつか見える。以前は、標高が少し高い秋田県側の鉾立(ほこだて)口から、傾斜がなだらかな谷の右尾根を登り詰め、滑り降りる斜面を全貌できる一番高い草付きで昼食にしていた。大平口から登っても、その草付きに出られるからそこで終りにしようと提案したのだが、夫妻の目は笙ヶ岳北側の真っ白な斜面を注視していた。私も一度ならずスキーを担いで登ったことがあるが、稜線の向こう側に鳥の海や鍋森を眺められる以上に、笙ヶ岳東側の白い急斜面に魅了させられた。それも草付きに着いてからと話するうちに、御浜の上に先日の降雪で白くなった外輪山と新山があらわれた。これで、今日の目的はだいたい終わった。

 いつも休んでいた草付きからもう一つ上にある「ハイマツ島」の上端で昼食にする。見上げる空は雲一つないが、水平線の上は靄(もや)ってきた。天候はゆっくりと下り坂になっているようだ。ラーメンをゆで、おにぎりをほおばった後、インスタント豚汁用のお湯を沸かしているうちに、K氏はスキーを担いで目の前の笙ヶ岳へ登って行った。お湯が沸きたたないうちに、彼の黒い粒は山頂に立ち、私たちが豚汁をゆっくり飲んでいるうちに滑り始めた。あわててカメラを構える。うまく写っただろうか、と話しているうちに彼が帰り付いた。

 春スキーは、いくらゆっくり楽しんで滑ろうと思っても、ブルーラインまでせいぜい20分間に引き伸ばすのが関の山だ。私たちはコースを選び、ゆっくりと大きなシュプールを描ける斜面を思い出し、探しながら滑り始めた。大平から登ったコースは狭い急な谷になっている。その北側の斜面は鉾立口のすぐ南側までゆるやかで広く、春スキーにはもってこいなのだが、その斜面へ向ったスキーのシュプールの跡は2、3本しかなかった。みんな知らないのだろうか。こんないいゲレンデを。

 私たちは、本当に誰もいない広いゲレンデを、眼の前の日本海へ跳びこむように、大きく、小さく、自由に、気ままに、スキーの先が向くままに、好きなように滑って行った。途中で2回、撮影会をしてが、やはり20分もかからないで、観光客の車がすれ違うブルーラインの道路に着いてしまった。

 私たち3人は、喜び、充足感、感慨、そしてさわやかな疲労感を抱いて、ゆっくりと鳥海山を下りて行った。次の春まで残る思いを胸にして。

                               (陽)